半坪ビオトープの日記

国上寺、乙子神社


朝日山展望台から国上寺方面を眺めると国上山山頂(313m)が眺められる。

国上寺駐車場に戻るとビジターサービスセンターがあったので立ち寄ってみた。館内には良寛の遺墨や良寛関係の資料、国上山周辺の写真などが展示されている。

センターでは、月二回、良寛歌碑の拓本体験も実施されている。

国上寺から国上山を下る途中の鬱蒼とした森の中に乙子(おとご)神社がある。

良寛は五合庵に十数年暮らした後、還暦近くになって山の上り下りが老身にこたえてきたため、文化13 年(1816)に五合庵より少し麓よりの乙子神社の草庵に移り住んだ。今でこそ車道から森の中に分け入るようだが、実際には裏道を数分歩くと茅葺の民家が集まる部落があり、そこから祭りでなくとも人が訪れてきたと思われる。草庵に客が来て酒がなくなり、良寛は客を待たせて部落の造酒屋まで酒を買いに出かけたが一向に戻らない。心配した客が探しにいくと、途中、客のことなど忘れてあまりに美しい名月を眺めている良寛を見つけた。よく聞くそんな逸話が思い出される。
現在の草庵は、昭和62年に再建されたものである。ここで過ごした約十年間が良寛芸術の円熟期といわれ、遺墨の多くはこの草庵時代に生まれている。

乙子神社の境内は猫の額ほどの狭いものではあるが、今でも春祭りには賑わうそうなので、良寛の住んだ当時にもあったと思われるお祭りに、良寛はさぞ喜んだことだろう。
現在の拝殿は、明治18年(1885)に再建されたもので、桁行3間梁間2間、入母屋造元茅葺、1間の向拝に唐破風が備えられ、小さいながらも重厚な雰囲気を醸している。

乙子神社の創建は不詳だが、弥彦神社と関係が深く、祭神である建諸隅命は弥彦神社の祭神・天香山命の第6嗣である。乙子とは「末っ子」という意味で、天香山命の末っ子の神を祀っていることになる。
良寛は文政9年(1826)69歳で国上山を離れて島崎の名家・木村家に移住し、そこで最晩年の心温まる交流が始まる。夫と死別後に出家した29歳の貞信尼は、良寛の歌道の弟子となることを望み、島崎の草庵をひとり訪ねた。貞信尼は、「これやこのほとけの道に遊びつつ つくや尽きせぬみのりなるらむ」との歌を送り師事を許された。
良寛の返した歌は、「つきてみよ一二三四五六七八九十を 十とをさめてまた始まるを」
このときから良寛がこの世を去るまで二人の交流が続く。
「いついつと待ちにし人は来たりけり 今はあひみて何か思はむ」良寛
「生き死にのさかひはなれて住む身にも さらぬ別れのあるぞかなしき」貞信尼
重い下痢症に苦しみつつ、良寛天保2年(1831)74歳で、木村家にて貞信尼などに見守られ息を引き取った。

乙子神社社殿の右手前に良寛詩歌碑が立っている。安政5年(1858)良寛が亡くなって27年後に、阿部定絹・小川霞山が中心となり建立された、現存最古の良寛の詩歌碑である。
「生涯懶立身 騰々任天真 嚢中三升米 爐辺一束薪
 誰問迷悟跡 何知名利塵 夜雨草庵裏 雙脚等問伸(沙門 良寛書)
安散都久非 無閑比遠可耳 左遠志當天里 閑美奈川幾
之久礼能安女爾 奴礼都々當天里」
(解釈)生涯、世の中でひとかどの者になろうなどという気も起こらず、自分の天性のおもむくまま、あるがままに生きてきた。
袋のなかの三升の米、炉辺に積まれた一束の薪、身辺にはそれしかない。迷いや悟りといった修行の跡など忘れ去り、世俗の名誉や財産にもまったく関心がない。
いま、雨の降る夜、庵の中にいて、のんびりと両足を伸ばして休むのだ。
早朝の明るさがにじみだした向いの岡に、一頭の牡鹿が立っている。今は十月、時雨の冷たい雨にぬれながら、じっと動かずに立ちつくしている。(燕市観光情報より)