半坪ビオトープの日記

出雲大社、本殿


御仮殿の後ろには、新しい本殿の屋根がかすかに垣間見ることができる。新しい本殿は玉垣に囲まれ、さらに御向社、天前社、門神社などが瑞垣と廻廊及び八足門で囲まれている。東廻廊には、観察楼が重なり、その手前には奉納されたお神酒が並べられている。

八足門でお参りしている人もいる。脇から中をのぞくと本殿とその前の楼門が見えるはずだが、まだ工事中のテントが邪魔でよく見えない。

この八足門には、左甚五郎の作と伝えられる瑞獣と流水文などの美しい彫刻が施されている。

本殿などの現在の社殿は延享元年(1744)の造営だが、楼門や八足門、廻廊及び観察楼などは寛文7年(1667)の建物を延享度造営に際し解体移築したものである。

観察楼の右手には、東十九社の苔むした屋根が見える。

こちらは瑞垣の左手にある西十九社である。東十九社と西十九社は、神在月に全国から集まる神々の宿で、その期間には扉が開かれる。通常は全国の神々の遥拝所となる。

西十九社の前から、瑞垣の中の門神社と出雲大社の本殿が垣間見える。
右手前の門神社本殿は、桁行二間、梁間正面一間背面二間、向拝一間、切妻造妻入檜皮葺で、延享元年(1744)の建立である。大国主神の門衛の役で、この西側東面の社には久多美神を祀っている。東側西面の社には、宇治神を祀っている。
出雲大社は、式内社名神大社で、出雲国一宮である。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。
古代より杵築大社と呼ばれていたが、明治4年(1871)に出雲大社と改称した。
祭神は大国主大神で、創建については、日本神話などに次のように伝承が語られている。
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って、出雲の「多芸志の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神(=大国主神)の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』)
創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。
国宝に指定されている本殿は、高さが24mあり、桁行二間、梁間二間、切妻造妻入、檜皮葺きで、正面右寄りに階段と階隠が付く。日本古来の神社建築様式で大社造という。
延享元年(1744)の造営いらい、文化6年(1809)、明治14年(1881)、昭和28年(1953)、平成25年と4度の修造が行われてきた。今回も本殿は建て替えられず、檜皮屋根の全面葺き替えや腐朽した部材の修理が行われた。
本殿の破風板の錺(かざり)金具には、緑青を混ぜた「緑ちゃん塗り」が施されている。神紋は、二重亀甲に剣花角である。

本殿の左手には筑紫社が建っている。筑紫社にも本殿と同じように、社殿に繋がる階段を覆う階隠(はしかくし)が設けられている。祭神は、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)である。大国主神の妻であり、須佐之男命の娘であり、海上の安全を守る神である。