半坪ビオトープの日記

鏡忍寺、本堂


安房鴨川駅の北1kmほどの所に、日蓮の小松原法難で名高い鏡忍寺がある。文永元年(1264)11月、日蓮は、信者であった天津城主工藤吉隆のもとへ説法にでかけた帰り、他宗批判を繰り返す日蓮に反感を持つ、浄土宗信者であった地頭の東条景信に襲われ負傷した。この小松原法難のとき、日蓮を守ろうとして討死した弟子の鏡忍坊と工藤吉隆の菩提を弔うため、吉隆の子で、日蓮の弟子になった日隆に、日蓮が弘安4年(1281)に建立させた寺である。
古めかしい総門(山門)の両側には土塁のような盛り土がある。総門をくぐると右手には、大きなマキの木がいくつも並んでいる。

正面には総欅造りの仁王門が建っている。三間一戸の楼門で、入母屋造瓦葺の堂々とした構造である。三手先の組物で上層部を支え、高欄を付した廻縁が設けられている。ただし、仁王像は現代の作のようで、あまり躍動感が感じられない。

仁王門をくぐると樹齢千年といわれる「降神の槙」が大きく枝を広げている。樹高7m、枝張り14mで、鴨川市の天然記念物に指定されている。日蓮の一行が襲われた際に、この槙の樹上に鬼子母神が現れ東条景信を睨みつけ、日蓮は額に3寸の傷を受けるも、危うく難を逃れたと伝えられている。

降神の槙」の奥には、鏡忍坊の墓を含めた三祖塔がある。宗祖日蓮を開山に、鏡忍房日暁を二祖に、父吉隆の妙隆院日玉を三祖に仰ぎ、日隆自らは第四祖となったといわれる。

仁王門をくぐって鐘楼の遥か左手の林の中に、切妻茅葺の朱雀門(裏門)がぽつんと建っている。唐破風が前後にある向唐門という形で、江戸時代初期から中期頃に建てられた。市の有形文化財に指定されている。

鐘楼の手前にはいくつかの石碑が建っている。中央の歌碑には、「小松原の秋静かなりかくり世の 人呼ぶごとく百舌鳥の高鳴く 曽我辺雅文歌」とある。
左の歌碑は、読み取りにくいが「ふけてゆく台風のそら月のこと 沖にたつなみ見せてくらみぬ」という、杉田博の歌と思われる。

石碑の裏手に鐘楼堂と三十番神堂が建っている。鐘楼の頭貫(木鼻)の獅子は、四代伊八武志伊八郎信明の作である。
鐘楼の右手前にある石碑は、正岡子規が鏡忍寺を訪れたとき詠んだ句を刻んだものである。「雉鳴くや背丈にそろふ小松原  子規」

本堂(仏殿)は、入母屋造に唐破風の向拝を設けた大きな建物で、江戸時代のものと思われるが、確かなことは分からない。

本堂向拝虹梁の「波と亀」の彫刻は、二代伊八郎の作と考えられている。もう少し近づけば見られた本堂欄間の「双龍の図」は、二代伊八武志伊八郎信常の作である。