半坪ビオトープの日記

大多喜城跡


大多喜駅の南西、夷隅川中流の屈曲部に張り出した丘陵上に、大多喜城本丸跡がある。中世の大多喜は資料上、小田喜(おたき)とあるので、当時は小田喜城と呼ばれていたと考えられている。

駐車場から城跡へ上っていく途中に、大多喜水道の水路跡がある。城下の商家で大地主の小高半左衛門が明治2年(1869)に作った約4kmの水道で、約80年間使われた千葉県最古の水道である。

道端にテンナンショウ属の花のような仏炎苞を見つけた。葉が開ききっていないが、多分、マムシグサ(Arisaema serratum)であろう。日本全国の林床に自生するテンナンショウ属の代表種である。

坂道を上っていくと、右手に二の丸公園がある。上の段には鐘楼があるようだが、今回は省略する。

16世紀前半に竹田氏が入城したといわれているが、天文年間(1532-55)に安房の里見氏の重臣だった正木氏が入り、以後4代にわたり上総正木宗家の居城として発展する。その後、天正18年(1590)に北条氏の小田原城豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康江戸城に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝に与えて安房の里見氏の勢力を抑えようとした。

城主は本多氏のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、元禄16年(1703)に松平氏が入城する。以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えた。
大多喜城本丸跡に、天守閣造りの千葉県立中央博物館大多喜城分館が、昭和50年に建てられた。

3層4階の博物館の4階展示室からは、大多喜町の様子が見下ろせる。右手の大多喜高校が二の丸跡に建てられていて、敷地内には二の丸御殿薬医門や大井戸が残されている。

展示室には大多喜城と城下町の模型や周辺の写真などが展示されている。左が大井戸で、右の写真は蔵造りの町家建物で、明治9年に建築され「釜屋」という屋号で金物屋を営んでいた江澤家である。