半坪ビオトープの日記

行元寺、旧書院


本堂の前の左手には、大きな三つ穴灯籠があるが、水盤の近くにも小さな灯籠がある。そちらは亮雲大僧正の石灯籠という。行元寺は多くの学僧を輩出したが、なかでも天海大僧正の弟子である亮雲大僧正(厳海)は、家康や大多喜城本多忠朝との信頼厚く、上野寛永寺学頭となって家光の師となったことで特に知られている。

本堂前右手にも三つ穴灯籠があり、その先に小さな毘沙門天像が建っている。その右には十三重層塔が建っている。

さらに本堂の右手には茅葺の客殿が建っている。享和2年(1802)に建立された旧書院で、初代波の伊八の「波に宝珠」や「波に鶴」の彫刻、等随の杉戸絵などがあるが、全て撮影禁止である。ちなみに「波に宝珠」は、伊八58歳の作品である。

客殿に入ってすぐ右手に、堤等淋の弟子である五楽院等随の「土岐の鷹」の杉戸絵が現存する。等随と葛飾北斎は、共に堤等淋に絵を学んだ仲であり、葛飾北斎が同門の等随の杉戸絵を見るために行元寺を訪れて、同じ客殿の欄間にある「波の井八」の「波に宝珠」の木彫の迫力に圧倒されたのである。現物は撮影禁止のため、パンフの切り抜きにする。

客殿の欄間彫刻、波の伊八の「波に宝珠」も「波に鶴と朝日」も間近で見ることができるが、撮影禁止のため、境内に建つ伊八亭のポスターを参考に説明しよう。

初代伊八は、本名を武志伊八郎信由(1751-1824)といい、現在の鴨川市打墨の生まれである。島村丈右衛門貞亮の弟子となって欄間彫刻など多くの名作を残した。特に行元寺の彫刻から「波を彫らせたら天下一」といわれ「波の伊八」の異名で知られるようになった。写実的・陰影法・遠近法といった西洋画法を駆使し、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」に影響を与えたといわれている。

「関東に行ったら波を彫るな」といわれるほどの横波の波濤の一瞬をとらえるために、伊八は馬に乗ったまま海に入って波の横からスケッチしたという。波の伊八が北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」に影響を与え、北斎の浮世絵が後期印象派の画家ゴッホの称賛を受け、作曲家ドビュッシーがその浮世絵に着想を得て交響詩「海」を作曲しているというのだから、波の伊八の影響力は相当に大きいといえよう。

波の伊八亭の右手には、延命地蔵が安置されている。

山門の内側から見て右手には、苔むした境内の一角に六地蔵がかわいらしく並んでいた。