半坪ビオトープの日記

玉前神社、本殿


社殿の左、西側にマキの大樹に囲まれて芭蕉の句碑がある。
たかき屋にの御製の有難を今も猶
叡慮にて賑ふたみや庭かまど  はせを
芭蕉の句に、
名にしおはゞ名取草より社宮哉  金波
を発句とする表十句が刻んである。この碑は上総千町村(現茂原市千町)の俳人、起名庵金波(河野五郎兵衛)一門によって建てられたもので、書も金波といわれている。

芭蕉の句碑の右手には、大きな石碑が建っている。「上総権介朝臣廣常公顕彰之碑」という。碑表に願文を大書し、碑背には廣常の弟天羽荘司の撰文が刻まれている。平廣常は兵2万を引き連れて頼朝の挙兵に応じるも、讒言に遭い謀殺された。その後、玉前神社神主が、生前廣常が頼朝の東国平定を祈願し玉前神社に甲を奉納したことを鎌倉に知らせると、頼朝は大いに後悔したと伝えられている。

社殿の裏手もかなり広く、その一隅に末社の十二神社がある。明治初年に一宮町内の十二社を合祀したものである。境内末社十二神社例祭が10月にある。信仰の中心は愛宕神社で、通称「愛宕さま」と呼ばれ、火伏せ、防災の神様として親しまれている。
それとは別に、大同2年(807)創始と伝えられる「上総十二社祭り」が一宮町の無形民俗文化財に指定されている。毎年9月に行われるこの祭りは、祭神玉依姫とその一族の神々が由縁の釣ヶ崎海岸で年に一度再会されるという壮大な浜降り神事で、房総半島の浜降り神事の中でも最古の伝統を誇っている。

社殿は、貞享4年(1687)に造営されたものであり、大唐破風、流入母屋権現造銅板葺きで、黒漆が塗られている。拝殿は修理中で見られないが、本殿を後ろから垣間見ることができる。

本殿の右手には招魂殿が建っている。一宮町の明治からの戦没者を祀っている。

招魂殿の手前、神楽殿の奥に神木が立つ。イスノキ(Distylium racemosum)というマンサク科イスノキ属の常緑高木で、関東以西に自生する。葉にしばしば虫こぶ(ひょんの実)がつき、その実の空洞の穴に唇を当てて吹くと笛になるので、ヒョンノキとも呼ばれる。
神木の手前にさびた錨と「獲錨記念碑」が立っている。明治末に九十九里浜から漁師の網に掛かり引き上げられたもので、東郷平八郎が篆額を記している。

神木の右手には朱色の鮮やかな神楽殿が建っている。玉前神社相伝の神楽面23面により伝承されてきた「上総神楽」が、今でも年7回奉納されているという。古い記録では、宝永7年(1710)神楽殿で土師流の御神楽が奉納されたというのが最初である。