半坪ビオトープの日記

行元寺、本堂


今回の史跡巡りは、房総東部の社寺を巡って、江戸時代に「波の伊八」と呼ばれた彫物大工、初代伊八の作品を観てまわることを主な目的としている。まず最初に「波の伊八」の代表作と、幻の名工「高松又八」の遺作が残っている、いすみ市の行元寺にわくわくしながら訪れた。
参道の先に大きく華麗な山門「慈雲閣」が建っている。享保20年(1735)に建立され、昭和50年からの改修で茅葺屋根を銅板葺きにし、つい最近、4年がかりで極彩色に復元した。

両脇に仁王像を安置する入母屋造二層で、仁王門とも楼門ともいう。
二層上部の蛇腹支輪に「波と菊花」、山門正面に二頭の「麒麟」、脇に「鳳凰」、後部・両脇の蟇股に、龍・海馬・虎・兎など多くの彫刻が施されて豪華絢爛となっている。棟梁は石橋伊織佐正利、木挽職は荻原江沢弥五右衛門である。

寺伝によると、東頭山無量寿院行元寺は、嘉祥2年(849)慈覚大師円仁によって伊東大山(現大多喜町伊東)に創建された。慈覚大師帰朝後、東国で最初に開山されたので「東頭山」と号し、無量寿寺と称して隆盛を極めたがその後衰退した。治承4年(1180)に冷泉大納言・二階堂行元により再興されて行元寺と改称し、中世以降、房総天台宗教学の拠点となり、天正14年(1586)に現在地に移ったという。

山門をくぐって真正面に、天正14年(1586)建立の本堂がある。元禄時代に拡張改造した房総屈指の大建造物である。桁行25m、梁間28mで、元は寄棟茅葺だったが、昭和の改修で入母屋造、桟瓦葺きとなった。

向拝の虹梁にある蟇股の龍は、幻の名工「高松又八」の作である。高松又八とは、徳川家御用彫物師・高松又八郎邦教のことで、彫工島村俊元の弟子とされ、江戸では公儀彫物師を務め、弟子11人が活躍して多くの流派を興した。江戸城改修工事では彫物棟梁として活躍、上野寛永寺の徳川4代家綱・5代綱吉の廟、および芝増上寺の6代家宣の霊廟に彫物を残したが、戦災で焼失して作品が残っていなかった。その後、唯一の作品がこの行元寺に残っていることが分かったのである。

虹梁木鼻の緑色の唐獅子と青色の獏も高松又八の作である。

本堂欄間に「宝永3年(1706)彫物大工 高松又八郎邦教」の銘が発見されて、幻の又八の作品が世に知られるようになった。これが欄間の彫刻「牡丹に錦鶏」の錦鶏である。

行元寺の本尊は、平安時代の作という阿弥陀如来像である。
本堂内の柱には大葵紋と毘沙門天文様が描かれ、豪華絢爛の桃山文化の雰囲気が漂っている。
堂内は撮影禁止なので、この柱も「牡丹に錦鶏」もパンフの切り抜きである。