半坪ビオトープの日記

二天門、浅草神社


宝蔵門の右手(東)奥に小高い丘があり、そこに弁天堂が建っている。弁天様は白髪のため「老女弁財天」と呼ばれ、藤沢市の「江ノ島」、千葉県柏市の「布施」とともに、関東三弁天の一つに数えられる。現在の弁天堂は、鉄筋コンクリ―ト造で、昭和58年の再建である。

弁天堂への石段の左に芭蕉の句碑がある。
「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」

弁天堂の右手には鐘楼が建っている。木造で昭和25年の再建である。鐘楼に架かる梵鐘は、江戸時代の「時の鐘」の一つで、元禄5年(1692)の銘がある。有名な芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」は、この鐘の鋳造の5年前の貞享4年(1687)に詠まれたものである。

弁天堂の北、本堂の右手(東)に二天門が建っている。元和4年(1618)に建てられた切妻造の八脚門で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。本来は浅草寺境内にあった東照宮への門であった。平成22年に改修されて、創建当初の様式に戻されている。

二天門と本堂の間に浅草神社の鳥居がある。浅草寺の起源となった土師中知(真中知)の没した後、その嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し檜前浜成・竹成兄弟と土師真中知の3人を祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりという。

実際には平安末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展に寄与した郷土神として祀ったものと推定されている。明治元年神仏分離により浅草寺と分かれ、三社明神社、明治6年に浅草神社となった。
浅草神社の社殿は、拝殿、幣殿、本殿からなり、幣殿と拝殿が渡り廊下で繋がった権現造りである。慶安2年(1649)徳川家光により建立され、平成8年に改修されている。

境内には多くの石碑がある。境内右手の一番右の石碑は、粧太夫による柿本人麿の句碑である。
太夫とは、文化年間(1804-17)の新吉原の遊女だが、書も和歌も嗜む教養ある女性だったという。
真中には、浅草の詩人、久保田万太郎の句碑がある。
「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」
左には、川口松太郎の句碑がある。
「生きるということ むずかしき 夜寒かな」

境内の左手にも、市川猿翁花柳壽輔中村吉右衛門の句碑などがある。この左の碑は、花塚の碑であり、右の碑は、歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥の顕彰碑である。