半坪ビオトープの日記

影向堂、六角堂


浅草寺本堂の左手(西)に影向堂、薬師堂、淡島堂などのお堂と境内社、石碑等が集まっている。影向堂(ようごうどう)では、聖観音菩薩像を中心に十二支生まれ年の守り本尊八体の像(影向衆)を祀っている。影向とは、影が形に従い、響きが音に応ずるように、仏の大きな力が各人の機縁に応じて現れ利益を与えてくれることという。平成6年に建立された鉄筋コンクリート造で、寄棟造錏(しころ)屋根本瓦葺き。堂内には浅草名所(などころ)七福神の内の大黒天を祀っている。

現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618)浅草寺東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られた。しゃっきょうと読む。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、和歌山藩主朝の長晟である。

石橋の先、影向堂の左前に、西仏板碑と三尊名号の碑がある。西仏板碑の上部に釈迦の種字を配し、中央に仏像が彫られている。建立者の西仏は不明だが、妻子の後世安楽を祈ったものと推測されている。建立年代も鎌倉末から室町初期とされる。
三尊名号の碑には、正面に南無阿弥陀仏、振り分けに観音・勢至両菩薩の名号を刻す。文政6年(1823)建立、上野屏風坂下の鹿島屋平兵衛により奉献された。

影向堂の左隣に、浅草寺最古の建造物といわれる六角堂が建っている。元和4年(1618)建立の木造単層、六角型瓦葺きの小堂である。日限を定めて祈願すれば必ず霊験があるという「日限地蔵尊」を安置している。

六角堂の向かいに秩父三峯神社より勧請された三峯神社が祀られている。

三峯神社の左手前には、六地蔵石灯籠が建っている。六角小松石造りで、火袋に六地蔵を刻す。以前は雷神門の外、花川戸町の入口にあり、明治中期に現在地に移された。建立は相当古く、久安2年(1146)源頼朝浅草寺参拝の際に重臣の鎌田兵衛政清が献進したとする説のほか諸説あるといわれる。

六地蔵石灯籠の向かい辺りに、尊勝陀羅尼の碑(左)と金翠翁の句碑(右)がある。尊勝陀羅尼の碑は、元治元年(1864)の建立で、仏頂尊勝陀羅尼を梵字で刻している。金翠翁の句碑は、文化6年(1809)の建立で、天明6年(1786)吉村達安が自作の三句を刻んでいる。

さらにその奥には、金龍権現社(左)、九頭竜権現社(中)、銭塚弁財天(右)が並んで建っている。浅草寺縁起によれば、本尊の観音様の示現にあたり、天より百尺ほどの金龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音様をお守りしたとされることから、浅草寺山号を「金龍山」という。これにより奉安されたのが「金龍権現」である。現在、春秋二回、浅草寺境内で「金龍の舞」が奉演されている。九頭竜権現は長野県戸隠山の地主神で、昭和33年の本堂再建にあたり、その成就を祈るべく勧請された。現在も浅草寺の伽藍安穏の守護神である。
背中を見せている銭塚弁財天は、福徳財運の弁財天として信仰が篤いという。