半坪ビオトープの日記

勝山漁港から1kmほどのところに周囲約780mの浮島がある。右手に見える無人島の浮島には浮島神社があり、景行天皇日本武尊弟橘媛磐鹿六雁命が祀られている。
伝説では、東国平定を成し遂げた日本武尊の死後、父の景行天皇は皇子と同じ旅路をたどり、弟橘媛の供養も兼ね浮島に着いたという。浮島に滞在中、同行していた磐鹿六雁命が浜辺でとれた大蛤や、釣り上げた鰹を料理して天皇に差し上げたところたいそう喜ばれ、以来、天皇の料理番となった。後に料理の神様として祀られたという。

勝山港の北に聳える大黒山(75m)の麓に法福寺と長谷寺がある。臨済宗建長寺派の法福寺は本堂の立替中で、数日後に上棟式を迎えるところだった。

法福寺の前の石段を上り詰めると、大黒山の裾に「堂山の観音様」と呼ばれる長谷寺がある。安房国音霊場第6番の臨済宗海光山長谷寺の本尊は観音堂に祀られている十一面観世音であるが、祭礼ではないので見られない。
応永13年(1406)僧木鐸により開山し、享保13年(1728)柏庭が再興したが火災により焼失し、弘化元年(1844)古道が再興するも明治4年の暴風雨で倒壊し、明治14年に再建された。

観音堂の左には、捕鯨の醍醐出刃組が大正3年(1904)に海上安全と大漁を祈願して鎌倉から移した半僧坊が祀られ、境内左手のはずれには元禄大津波の死没者供養のための海難記念碑がある。

観音堂の右手を進むと、醍醐新兵衛の墓がある。寛永7年(1630)勝山に生まれた醍醐新兵衛初代定明は房総捕鯨の祖といわれ、勝山組(大組、新組)、岩井袋組と3組57船500人の船団を組織して、江戸湾でツチクジラを捕獲する捕鯨業をはじめた。その後代々、醍醐新兵衛と名乗り、捕鯨業の総網元、大名主として村を指導した。近代になると製油産業や缶詰工業を興したりしたが、嫡子がなく11代で廃絶した。中でも8代定緝、9代定固は幕命により国後島択捉島に渡り、北海道、樺太北洋漁業開拓に貢献した。右に蜀山人の歌碑がある。

文化3年(1805)狂歌師、蜀山人が勝山を訪れた際、醍醐家の繁栄を讃えて歌を贈った。
いさな(鯨)とる安房の浜辺は魚篇に京という字の都なるらん 蜀山人