半坪ビオトープの日記

大黒山の裾にあった観音堂の下に水月堂がある。創建は文和4年(1355)とされている。元禄16年(1703)の大津波で多数の死者が出たとき、通称仙人塚に供養されたが、捕鯨集団醍醐組でも3代目醍醐新兵衛の兄弁之助や親戚などに犠牲者を出した。3代目新兵衛明定は、元文5年(1740)に死没者の冥福を祈るためと、助かった自分たちに対する仏の加護に感謝して、千手観世音像を安置した。

水月堂の左には身代わり観音の石碑が建てられている。水月堂に上がる石段の左には、たくさんのお地蔵様が祀られている、やすらぎ地蔵の祠がある。

水月堂から通りに出るところに大黒山大智庵が建っている。臨済宗建長寺派であるが、それ以上の詳細は分からない。

加知山神社へ続く通りを勝山駅に向かって進むと、浄土宗の華王山浄蓮寺がある。小林一茶は、文化3年(1806)醍醐新兵衛4代定恒(葛飾派、俳号宜明)に鯨見物に招かれ、浄蓮寺に8泊し5句を詠んでいる。一茶は房州の名主クラスを中心に広まった葛飾派の俳人で、俳諧行脚として房総に何回も訪れている。
わざわざに、蝶も来て舞う夏花かな  一茶   
夏花(げばな)とは、夏篭(げごもり、夏の間禅僧が一室にこもって修行する)の間、仏に供する花

醍醐新兵衛初代定明は、元禄大津波で流失した浄蓮寺を復興している。その大津波のとき松につかまって助かった人があり、以来、お助けの松といわれている。その松は枯れたが同じ所から若松が出ている。

さらに進むと同じく左側に醍醐山妙典寺がある。醍醐新兵衛家の菩提寺である。初代定明は荒廃していた妙典寺や浄蓮寺を再興した。
妙典寺には、幕末に蝦夷地漁場開拓を進めた8代定緝の墓がある。南下するロシアの脅威に備える意味もあって、北洋漁場開拓を幕府に頼まれて勝山の漁師が樺太まで出かけたのである。

門の内側左手に大きな「勝山藩義士の碑」がある。慶応3年(1867)大政奉還で幕府は滅びたが、不満とする幕府方が各地で兵を挙げた(戊辰戦争)。上総請西藩藩主の林忠崇も義軍と称し挙兵し、援兵を迫りながら房総を南下してきた。勝山藩はすでに朝廷に忠誠を誓っていたが恩義があって断りきれず、31名を半ば脱藩の形で参加させた。その後官軍と戦い敗れ、勝山藩士は4名戦死、5名行方不明となり、首謀者達は切腹させられた。勝山藩では、福井小左衛門と楯石作之丞が切腹し藩を救った。この2名を含む勝山藩士31名の忠義を讃えてこの碑が建てられた。