半坪ビオトープの日記

加知山神社は、古くは牛頭天王といい、祭神は素戔鳴尊須佐之男命)である。元禄16年の大地震津波(1703)で仁浜の天王塚が波欠したので、享保7年(1722)に2代醍醐新兵衛明廣が敷地の日月に天王の社地を開き、社祀を再建し遷座したという。天保7年(1836)に7代醍醐新兵衛定香が大絵馬を奉納した。明治になって加知山神社と改称され、郷社に昇格した。鳥居はシンプルな靖国鳥居と呼ばれるものである。

現在、社殿には浮島神社、八幡神社と3社のご神体が合祀されていて、勝山地区の祭礼の時に、浮島神社に御霊を移す「島渡し」が行われている。

拝殿の裏に続く本殿の右手には、日月神社が祀られている。元はこの加知山神社の境内は日月神社の社地だったという。祭神は大日孁貴神(天照大神)と月夜見命である。

本殿左の鳥居の上には、弁財天が祀られ、小峰神社と合祀されている。石段の右脇には石祠の鯨塚がある。先ほどの板井ヶ谷(竜島)に120基あったが、それ以前は醍醐家ゆかりの加知山神社の弁天様の下に100基ほど鯨塚があり、鯨組220年の歴史を示しているという。

勝山の海岸を北に進むと、源頼朝上陸地がある。治承4年(1180)伊豆で挙兵した頼朝は石橋山の戦に破れ、真鶴より安房へ渡った。吾妻鏡によれば上陸地点は現在の鋸南町竜島とされる。頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し再起を図った。房総には下総の千葉常胤や上総の上総広常など源氏恩顧の豪族が多く、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上し鎌倉へと入った。その後平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開いた頼朝の再起の一歩はここから始まった。

源頼朝上陸地をさらに北上すると、菱川師宣記念館に着く。肉筆浮世絵から木版による浮世絵版画を考案し、浮世絵の始祖ともいわれる菱川師宣は、寛永の中頃(1630頃)鋸南町の保田で縫箔刺繍業を営む家に生まれた。有名な「見返り美人」は、戦後初めて発行された記念切手にもなった。記念館には、師宣のほか歌川広重、豊国、国芳らの作品も展示されている。

記念館の前には、長谷川昴作の見返り美人銅像が立っている。また、師宣が保田の別願院に親族の供養のために寄進したという梵鐘がある。
これで、岩井海岸から鋸南町勝山までの散策を終えた。数時間歩きづめで疲れたため、最後はタクシーの世話になった。