半坪ビオトープの日記

岩井袋の福蔵寺の手前の道を右手に上って行き、隧道をくぐって進むと勝山の板井ヶ谷に竜島という集落がある。東にこんもりとした小山があり、そこの崖に弁財天が祀られている。

弁財天は水神であり、財産を司る福神である。その弁財天の右脇に小さな祠が集まった鯨塚がある。
江戸時代に勝山では捕鯨が行われ、醍醐新兵衛が組織した鯨組の漁師達がツチクジラを捕っていた。勝山藩酒井家の分家で竜島の殿様(3000石)といわれていた旗本酒井家の弁財天境内に、鯨を解体する出刃組3組12人が1年に1基の供養碑を建てた。
ここには120基ほどあり、堤ヶ谷石(地元の石)でつくってある。日本の鯨塚の中でも一番多いという。

風化の進んだものは埋めてしまい、現在は52基残っている。鯨塚は供養碑・祈願碑であり鯨の墓ではなく、碑の大きさにより捕鯨数が分かるといわれ、捕鯨が120年以上続いていたことも分かる。
1頭で油は26〜27樽(1樽45kg)、赤肉は60樽ほどとれたという。

鯨塚の手前にジャノヒゲ属のノシラン(Ophiopogon jaburan)の大株があった。房総半島から沖縄にかけての海岸近くの林の中に生える多年草で、30〜50cmの花茎の先に白い花を密に咲かせる。
属名は、ギリシア語の ophio(蛇)と pogon(髭)に由来し、日本語のジャノヒゲにちなむ。

竜島の集落の北のはずれに最誓寺がある。浄土真宗本願寺派である慈光山最誓寺は、江戸初期の寛永6年(1629)釈圓智により下野国寒川郡山田村に創建された後、寛永15年(1638)に加知山村(今の勝山)が佐倉藩主堀田氏の所領となった折に勝山に移転した。行基作と伝わる聖徳太子16歳の孝養太子像を安置している。

最誓寺の前の道端には、可愛らしいお地蔵様がいくつも見かけられた。

こちらのお地蔵様は、頑丈な岩屋に囲まれて雨露をしのいでいる。