半坪ビオトープの日記


山門から参道を進むと、立ち並ぶ樹林によって薄暗くなり、道の脇には苔むした奇岩怪石がごろごろと現れてくる。少し上がると姥堂がある。この堂の本尊は奪衣婆の石像である。

ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め新しい着物に着替えて極楽に登り古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。

山寺の地形の特徴は中谷の両側に切り立つ岩盤とそこに見られる大小さまざまな穴である。岩質が火山灰や軽石を含めた凝灰岩でできていてたいへん柔らかく、永年にわたる水の作用で徐々に崩れてできた風化穴と呼ばれる。穴だらけの岩の上に石塔が建てられたり、柔らかな凝灰岩に石塔の形が陰刻されている。これは岩塔婆といって故人の供養のために彫られたもので、戒名が刻まれている。室町時代のものもあるそうだ。

昔から修行者達が歩んだ参道の一番狭いところは四寸道と呼ばれ、開山慈覚大師の足跡を踏んで先祖も子孫も登るところから親子道とも子孫道ともいわれる。左上に聳える百丈岩の上に、納経堂や開山堂、展望のよい五大堂が建っている。

風化穴による岩の表面の凹凸が、蝉の声を吸収しながら反射し、岩盤にしみ込むように穏やかに聞こえるという。環境庁が平成8年に選んだ「日本の音風景100選」の中で蝉の声が4ヶ所あり、その一つが山寺である。どこで芭蕉が蝉の声を聞いたかは分からないが、ここに芭蕉の句を書いた短冊を埋めて石塚を建てたので、これをせみ塚と呼ぶ。建てたのは、最上林崎の素封家坂部九内=俳人・壺中で、寛延年間(1748~50) に建立といわれる。
さて、芭蕉の聞いた蝉はどんな蝉か、昭和初期に歌人斎藤茂吉と、夏目漱石門下で芭蕉研究家の小宮豊隆との間で論争が起こった。いわゆる蝉論争である。山形県出身の茂吉はアブラゼミ、小宮はニイニイゼミと主張した。論争の決着は、芭蕉が山寺を訪れた7月13日(新暦。旧暦は5月27日)頃鳴いているセミを実際に調査して行われた。その結果、まだアブラゼミは鳴かず、鳴いていたのはニイニイゼミだったので、茂吉が敗れた形で論争が終結したという。

永い歳月の雨風が直立した岩を削り、阿弥陀如来の姿を作り出した。丈六(約4.8m)の阿弥陀ともいい、仏の姿を見ることができる人には幸福が訪れるというが、残念ながらどれだか分からない。ここを弥陀洞(みだほら)という。岩塔婆もたくさん彫られているが、その下におびただしい数の木柱が立てかけられている。よく見ると梵字一字の下に車がはめ込まれている。六字名号(南無阿弥陀仏)と戒名を書いた、後生車というものである。年若くして亡くなった人の供養で、南無阿弥陀仏と唱えて車を回すと、その仏が早く人間に生まれて来ることができるという。おどろおどろしい湯殿山には及ばないが、東北の霊的世界の一端を感じさせる場所だ。