半坪ビオトープの日記

妙雲寺


塩原温泉のほぼ中心に、甘露山妙雲寺がある。温泉街に面して大門があるが、駐車場のある脇門から入る。

寿永年間(1182~85)に源平の戦いに敗れた平家一門の平重盛の妹・妙雲禅尼が、平貞能と共にこの地に逃れ、草庵を結んだのが始まりとされる古刹で、正和元年(1312)に仏国国師の子弟・大同禅師が妙雲寺と改め、甘露山の号を付し寺院を建立した。文禄2年(1593)に焼失し、元文5年(1740)に大鏡禅宜和尚により上棟され、寛保2年(1742)に落慶・再建された。本堂は、間口7間、奥行5間の寄棟造で、廻縁には高欄が付けられ、屋根は銅板葺き(再建時は茅葺)で、内陣の権現造りの宮殿とともに市の有形文化財に指定されている。本尊の釈迦牟尼仏平重盛の念持仏と伝えられる。

戊辰戦争で塩原の多くの建物は会津軍によって焼き払われ、焼失を免れたのは古町の温泉神社、逆杉で知られる塩原八幡宮、そしてこの妙雲寺だけであったという。妙雲寺が焼失を免れたのは、会津軍の斥候となり協力した住民の渡辺新五右衛門が、会津軍の隊長に嘆願したことによると、本堂にある俳句額の裏面に記されている。本堂の格天井には、88の菊の紋章が描かれているが、2つを残して墨の×印がある。会津軍撤退の際に付けられたものと伝えられている。

本堂に向かって右手前に鐘楼堂が建っている。文禄2年の火災で本堂と共に焼失した鐘楼は、妙雲寺首座の清岩和尚により寛永14 年(1637)に新しく鋳造された。

本堂に向かって左手前に閻魔堂が建っている。元文5年(1740)に再建された本堂は、前の住職・乙道祖蔓和尚によって再建中だったが、上棟直前に他界した。その前の享保16年(1731)乙道祖蔓和尚のとき、村人惣旦那衆によりこの閻魔堂が建立されている。現在は塩渓文庫と呼ばれている。

塩渓文庫(閻魔堂)の右に白壁の宝蔵が建ち、その右に温泉薬師堂が建っている。この薬師堂も閻魔堂と同じ時期に建立されている。

本堂の左側に「貝石」という貝の化石のかたまりがある。奥塩の湯の小太郎ヶ渕で採集された約2000万年前のものとある。

貝石の先、本堂の左奥には、常楽の滝が流れ落ちている。避暑のため妙雲寺を訪れた夏目漱石が、「妙雲寺に瀑を観る」という漢詩を作って、時の住職に送ったという。毎年5月に催されるぼたん祭りの牡丹苑は、この滝の右の石段を上った小高い丘の上にある。さらに滝の下の水辺では、春先にミズバショウが咲く。

常楽の滝の左の石段の上には、九重塔の妙雲禅尼の墓があり、墓の印として植えられたと伝わる大杉が聳える。3本の杉が結合し、根回り12m、樹高約50mとされる。

妙雲禅尼の墓の石段の左には、平家塚や温泉神社に続く、参道の坂道がある。左手には、斎藤茂吉夏目漱石松尾芭蕉尾崎紅葉等の文学碑があり、「文学の森」と呼ばれる。
とうとうと喇叭を吹けば塩はらの深染の山に馬車入りけり 斎藤茂吉

参道の坂を上りきると右に六地蔵が祀られ、さらに塩原百観音や温泉神社に向かう道が右上に続く。左手の林の中には、苔むした平家塚がひっそりと佇んでいる。