半坪ビオトープの日記


牛嶋神社の名の由来は、両国・向島の本所一帯が牛島といわれ、天武天皇の時代(701~64)に国営牧場が設けられ浮島牛牧と呼ばれていたからという。
社殿のすぐ右には小振りの小梅稲荷神社があるが、詳細は不明である。昔この辺りは小梅村といったのでかなり古いと思われる。水戸徳川家の小梅屋敷内に祀られていたものかもしれない。

社殿の右手前には、文政8年(1825)頃に奉納されたという撫牛がある。撫牛の風習は江戸時代から知られていて、自分の身体の悪い部分を撫で、牛の同じところを撫でると病気が治るという。牛島神社の撫牛は身体だけでなく心も治ると信じられている。また、この撫牛によだれ掛けを奉納する風習があり、それを生まれたばかりの乳児に掛けると元気に育つという言い伝えが残っている。

社殿の左右に神牛が一対、狛犬と並んでいる。牛嶋神社須佐之男命を祀っているので、須佐之男と同一視されることが多い牛頭天王とも関わっている可能性が高い。創建前から牛牧だったことからも、神使は牛であるのが納得される。

隅田公園から境内に入ってすぐ右の塀沿いに、いくつか像や碑が建っている。これは包丁塚と村田周魚の句碑である。
明治以降食事が洋風化し、牛肉を食することが一般化し、やがて食肉業者が供養のために牛に関わりのあるこの神社に奉納した。
寝そべった牛像の基壇には「慰霊 包丁塚」と描かれ、牛の後ろの板碑には「人の世の奉仕に生きる牛黙す」との村田周魚の川柳が彫られている。

難しい文字の殲蒙古仇碑記は、明治18年に仮名垣魯文などが建てたもので、北條時宗の功績を記している。