半坪ビオトープの日記

蕪嶋神社


三陸復興国立公園の北限は、周囲800m、高さ17mの陸繋島である蕪島で、ウミネコの繁殖地として知られ、国の天然記念物に指定されている。島の頂上には蕪嶋神社が鎮座していたが、この後1ヶ月余りの2015年11月上旬に、電気設備の不具合が原因の出火で全焼してしまった。

蕪島と呼ばれているが、昭和18年(1943)に旧海軍による埋め立て工事で本土と陸続きとなった。島は輝緑凝灰岩で成り立っている。島の麓の鳥居から頂上の神社入り口まで階段の参道が続き、参道の右手には「八戸小唄」の石碑が立っている。

蕪嶋神社は、社伝によれば永仁4年(1269)に厳島神社勧進したのが始まりといい、宝永3年(1706)に堂社が建立されたという。

祭神は宗像三女神のうちの一神で、市杵嶋姫命を祀る。「蕪島の弁財天」として信仰を集めてきたが、明治初期の廃仏毀釈により、蕪嶋神社と改められた。弁財天は商売繁盛や子授けにご利益があるとされるが、漁業の守り神でもある。拝殿内に奉納されていた大絵馬、障壁画、八戸市立鮫小学校児童天井画なども、この後の火災で残念ながら焼失してしまった。

社殿の周りは歩いて回ることができる。社殿右手には稲荷神社のほかいくつかの末社が祀られている。

社殿の裏手(北)を眺めると、しめ縄が掛けられた岩の手前に枯れた草原が広がる。ここはウミネコの繁殖地にもなっているところで、3月頃飛来し、営巣・抱卵・孵化して8月までに巣立つ間、最大3万羽にもなるというウミネコが居並ぶことになる。ウミネコは漁場を知らせてくれる鳥であり、弁天様の使いとして大切にされてきた。

蕪島の名の由来には諸説あり、野生のアブラナの「蕪」の花が咲く島、神を祀る場所としての「神嶋」・「神場島」、アイヌ語の「カピュー」(ウミネコ等)と「シュマ」(岩場)を合わせたなどの説がある。社殿裏の右手(東)には、しめ縄の掛けられた「七福の岩」が並び、その向こうには蕪島海浜公園(蕪島海水浴場)が見える。

社殿裏の左手(西)にも、ウミネコの繁殖地が広がり、八戸港を守る防波堤が見え、その先には埋め立て地にできた港湾・物流施設のポートランドが横たわっている。

拝殿の裏には本殿が続いていたが、この建物も火災で焼け落ちてしまい、今では復興・再建に向けた取り組みが行われている。

社殿左に立つこの自然石の石碑は、海防艦稲木之碑という。終戦直前の8月9日、八戸港蕪島沖で米軍機の猛攻を受け、八戸の盾となって沈没した海防艦稲木の戦没者慰霊碑である。

社殿左手に立つ背の高い石碑は、「平和克復の碑」という。第一次世界大戦終了で平和を取り戻した時の記念碑で、大正10年に木村太郎が建立した。

蕪島神社下の鳥居脇の水たまりでウミネコが水浴びをしていた。ウミネコ(Larus crassirostris)はカモメ属の鳥で、カモメより一回り大きいけれども見分けはつきにくい。ここの鳥たちは、黄色い嘴の先が赤と黒になっているのでウミネコである。日本では周年生息するが、冬季になると北海道や東北北部で繁殖する個体群は南下するものが多い。鳴き声が猫に似るが、食性は雑食で、他の鳥類がとらえた獲物を奪うこともあるという。向こうに屋根が見える寺は、曹洞宗の浮木寺である。幕末の僧・南溟(なんめい)によって開山され、境内には風流俳人として名高い乙因の句碑や、明治時代の遭難碑である郡司大尉短艇行溺死者供養費がある。かつて蕪島にあった弁財天像もここに移されている。
こうして昨年9月下旬の下北半島および八戸周辺の旅を終えた。