半坪ビオトープの日記


柴又駅から金町線の線路の西に行くと柴又八幡神社がある。

鳥居をくぐって境内に入ると柴又用水の碑がある。根府川石の板石碑で、明治6年の銘文が刻まれている。天保6年(1835) に鈴木幸七によって用水路が引かれ、水利用と洪水の克服ができたことを顕彰している。

こちらの石碑は、柴又勧農事績碑という。天明年間(1781~88)飢饉や洪水、天災によって農民の生活は窮状を極め各地で一揆が起こった。柴又村の名主七郎右衛門は村人に質素倹約、勧農を守らせ、荒れ地改良を進め村の復興に努めた。代官小野田三郎右衛門は、寛政10年(1798)名主七郎右衛門に褒状と銀10枚を与え、村役人や村人にも褒米を与えた。文政9年(1826)子孫達は先祖の功績をたたえてこの碑を建てたという。農政史上、貴重な資料とされる。

柴又は、「正倉院文書」の「養老5年(721)下総国葛飾郡大島郷戸籍」に見える「島俣里」に比定される古地名であり、八幡神社の本殿は古墳の上に建てられている。社殿は、寛永10年(1633)、宝暦3年(1753)以後、数十年毎に再建・修復を経て、昭和43年現在の社殿が造営された。これが拝殿である。右隣の社務所前では、寒稽古だろうか元気な若者たちが剣道の稽古に励んでいた。

祭神は、誉田別命建御名方命で、10月の例祭には疾病除けの獅子舞神事が奉納される。
社殿裏には石組みがあり、社殿下には古墳があったが、すでに墳丘は存在しない。円筒埴輪、人物などの形象埴輪、直刀、馬具、須恵器などの出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)の構築とされている。平成14年には周りの溝から寅さんに似た「寅さん埴輪」が出土した。古墳は直径20〜30mの円墳で、石組は石室であることがわかり、東京低地で石室を伴う古墳の唯一例として貴重なものとされる。

境内社は、諏訪神社、稲荷神社、八幡宮、水神宮があるといわれる。本殿裏のこの境内社はどれだろうか。

社殿の裏にある島俣塚は、昭和40年、本殿下の古墳出土の人骨を集めて埋め、その上に石畳の塚を築き、前に「島俣塚」と刻んだ自然石を立てている。
真勝院から八幡神社までは、柴又帝釈天の初詣の直前に巡ったのだが、帝釈天も含め予想以上に見所があって十分満足できた。