半坪ビオトープの日記

古代出雲歴史博物館


出雲大社の右手(東)に、古代出雲歴史博物館がある。出雲大社の裏山は八雲山だが、博物館の裏山は、八雲山の右の亀山である。

古代出雲歴史博物館では、「平成の大遷宮出雲大社展」という特別展で、国宝の「秋野鹿蒔絵手箱」などが展示されていたが、お目当ては銅剣・銅鐸・銅矛だったので、常設展だけ見て回った。中央ロビーの「宇豆柱」を見た後、テーマ別展示室に入ると、古事記日本書紀出雲国風土記の写本が展示されていた。

出雲大社の高層神殿復元模型がいくつも展示されている。中でも圧巻なのは、出雲大社本殿1/10模型であるが、これは福山敏男京都大名誉教授が戦前に設計し、その後1980年代の大林組の設計復元図を基に、平成11年(1999)に製作された、平安時代を想定して復元された模型である。従ってこれは、平成12年(2000)出雲大社の境内から発見された鎌倉時代=宝治2年(1248)の巨大な宇豆柱を基に復元されたものではない。しかし一見した所3本組でないように見えても、実は「金輪御造営差図」を基に3本一組の柱の隙間に材木を充填して1本柱に見せている。

こちらは、巨大な宇豆柱が発見された後に、5人の建築士の研究者が考えた5通りの復元模型である。巨大な宇豆柱が発見された後でも、本殿の高さ16丈説(約48m)は無理だと考える研究者がいることになる。

次の「青銅器と黄金の太刀」コーナーは、国宝の銅剣・銅鐸・銅矛419点を一同に展示していて、見る者を圧倒する。ずらっと並んだ銅剣は、昭和59年(1984荒神谷遺跡から発見された358本の銅剣である。それまで全国で発見された約300本を大きく上回る数である。

こちらの銅鐸は、平成8年(1996)加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸である。一躍全国最多の銅鐸出土地となった。

この銅鏡は、加茂岩倉遺跡から東南約3kmにある神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡である。『魏志倭人伝』には、景初三年(239)に魏の皇帝が倭の女王に銅鏡100枚を与えたと記されているが、景初三年銘の銅鏡は大阪府の和泉黄金塚古墳に次いで全国2例目であり、邪馬台国卑弥呼の鏡の一枚と考えられている。

こちらの太刀や鉄剣は、出雲東部の古墳出土品であり、3世紀頃のものとされている。
弥生時代末期から古墳時代初期の3世紀頃には、荒神谷や加茂岩倉遺跡などの銅剣・銅鐸・銅矛に見られるように、出雲東部にはかなり大きな豪族達の勢力があったことがよくわかる。

日本書紀』や『続日本紀』には、古墳に立て並べる埴輪の創出について、出雲出身の野見宿禰や、出雲の土部(はじべ)が深く関わったと伝えられている。特に人物埴輪成立初期のセットとしては日本国内最古であると判明している。
左の「葬送用の不思議な土器」も見かけたことのない形をしている。