半坪ビオトープの日記


徳川将軍家霊廟は御霊屋と呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に立ち並んでいて戦前はいずれも国宝に指定されていたが、戦災で96棟が焼失して残った建物も国宝の指定が解除された。その後、荒廃していた御霊屋群を昭和33年から調査、改葬されて現在のように縮小・整理統合された。
右列奥には、七代家継・有章院殿の宝塔がある。宝永6年(1709)出生。父の薨去、兄二人の早生でわずか3歳にして将軍を継ぐも、病弱で正徳6年(1716)に薨去した。

霊廟の正面右側には、二代秀忠・台徳院殿とお江の方・崇源院殿の宝塔がある。旧霊廟の中でも随一の規模、壮麗さを誇ったといわれる台徳院殿廟奥院に祀られた宝塔は、惜しくも木造のため戦災で焼失したため、墓所にはお江の宝塔が使用されている。大河ドラマでよく知られるように、お江は浅井長政織田信長の妹・市の三女として生まれ、母の市、茶々・初の二人の姉とともに、戦国時代から江戸時代にかけて波乱万丈の人生を生き抜いた女性である。三度目の結婚で、家康の息子・秀忠との間に二男五女をもうけた。

霊廟の正面左側には、六代家宣・文昭院殿の青銅製宝塔がある。寛文2年(1662)に出生。宝永6年(1709)に将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新を図り、生類憐れみの令を廃止するなど正徳の治を成し遂げたが、在職わずか3年で病に倒れ薨去した。旧文昭院殿霊廟は、拝殿内部がとりわけ荘重美麗だったが、同じく戦災で焼失した。

霊廟左列奥には、十四代家茂・昭徳院殿の宝塔がある。十一代家斉の養子である斉順の長子として弘化3年(1846)に生まれ、安政5年(1858)将軍の養子となって将軍になった。しかし、世継ぎ問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮内親王正室に迎えた。長州征伐を指揮し出征途中に、大阪城で病のため慶応2年(1866)に薨去する。

霊廟左列中には、静寛院和宮の青銅製の宝塔がある。仁孝天皇第8皇女として弘化3年に生まれた。6歳で有栖川宮と婚約するも、公武合体策によって15歳で徳川家に降嫁する。家茂没後、落飾して静寛院と称し、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に尽くすも明治10年に31歳で短い生涯を閉じた。