半坪ビオトープの日記


増上寺は徳川家の菩提寺であり、遺言により家康の葬儀が行われた寺でもあり、徳川将軍家の霊廟がある。
二代将軍秀忠など6人の将軍、同将軍御台所崇源院、皇女和宮など5人の正室、三代家光側室桂昌院など5人の側室や将軍の子女多数が埋葬されている。

霊廟の入口脇にあるこの門は「鋳抜門」と呼ばれ、もと六代将軍家宣・文昭院殿霊廟の宝塔前「中門」だったものである。
左右の扉に五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳ぬかれている。

この鋳抜門は正徳2年(1712)の鋳造で、旧国宝であったが、戦災で増上寺が焼けだされた後、指定を解除された。
これが右にある上り龍である。

門の内側にも同じように昇り龍・下り龍の精緻な図柄が見られる。

霊廟に入って右列手前には、十二代家慶・慎徳院殿の宝塔がある。十一代家斉の第2子として寛政5年(1793)に生まれ、天保18年(1837)に将軍となり、天保の改革に着手するも成果なく、嘉永6年(1853)慌ただしい世情の中で薨去した。

右列中には九代家重・惇信院殿の宝塔がある。正徳元年(1711)に八代吉宗の長子として出生したが、生まれつき多病で将軍になっても政務は重臣に任せた。宝暦10年(1760)49歳で将軍職を譲り隠退するも、51歳で薨去した。