半坪ビオトープの日記

恵林寺、信玄墓所

うぐいす廊下の先には信玄霊廟明王殿があるが、外からは「明王殿」と扁額の掲げられた古めかしい門が見える。

明王殿は、柳沢吉保の子吉里により元文5年(1740)に造営され、そこには武田不動尊が安置されている。比叡山より大僧正の位を受けた際、記念像として京都より仏師の斉藤康清を招き、対面で模刻させたという等身大の不動明王である。信玄の毛髪を漆に混ぜて胸部に塗り込めたと伝えられる。信玄生前の制作であることから、信玄生不動とも呼ばれる。信玄31歳であった。

明王殿の裏に信玄の墓がある。大永元年(1521)武田信虎の長男として生まれ、16歳の時、晴信と名乗り、39歳で出家し信玄(僧名)と号す。元亀4年(1573)53歳にて病死した。信玄の墓の後ろの墓地には、武田家臣の供養塔が約70基並んでいる。

恵林寺は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の側近で、甲府城主となった柳沢吉保菩提寺でもある。吉保の墓は、子である吉里の代に甲府市岩窪にある永慶寺から享保9年(1724)恵林寺に改葬されている。正室定子の墓塔と共に並んで静かに眠っている。墓の右側には柳沢吉保の簡素な霊廟があるが、中には何もなかった。

さらに右側にある五輪塔は、恵林寺開基の二階堂出羽守貞藤(道蘊)の供養塔と伝わっている。道蘊は、南北朝時代後醍醐天皇の信任を得た有能な人物だったが、足利尊氏の讒言により、謀反人として一族皆殺しに遭っている。

三門の右手に信玄の観桜の詠歌の石碑がある。快川国師の招きで恵林寺を訪れた信玄が、三門の両袖に咲く桜に見ほれて詠ったという。信玄直筆の詠歌色紙は、宝物館に展示されている。
誘引ずばくやしから満しさくら花
実こんころは雪のふるてら  大僧正信玄

恵林寺裏手の駐車場の垣根に、通称琉球もみじ葉アサガオが咲いていた。モミジヒルガオ(Ipomoea cairica)の園芸品種で、クリスタルパールピンクの名で出回っている。タイワンアサガオとも呼ばれ、熱帯アジアとアフリカに広く分布している。沖縄でも露地栽培され通年開花である。掌状に深く切れ込んだ葉が特徴である。グンバイヒルガオ、ソライロアサガオと同じ、イポメア(サツマイモ)属であり、サツマイモとも同属である。