半坪ビオトープの日記


瑞鳳殿の向かいの高台に感仙殿がある。2代藩主伊達忠宗(1599~1658)の霊屋であり、瑞鳳殿と同等の華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も戦災で焼失した。現在の霊屋は、瑞鳳殿に続いて再建が進められ昭和60年に完成した。

忠宗は政宗の治世を引き継ぎ、法治体制の確立を進め、新田開発や治水、港湾の整備など産業・経済の振興をはかり、藩の基礎固めを成し遂げたといわれる。

感仙殿の両脇には石塔がいくつも並んでいる。瑞鳳殿と同じく殉死した家臣12名、陪臣4名の宝篋印塔である。

感仙殿の左にあるのが善応殿で、3代藩主綱宗の霊屋である。感仙殿と同様に造営されたが戦災で焼失し、昭和60年に感仙殿とともに再建された。
綱宗が政治を行ったのはわずか2年間、21歳で引退した。引退後は江戸の伊達家の屋敷に移り住み、絵画などの優れた作品を残し、72歳で亡くなった。そのかなり前から江戸幕府は殉死の禁令を出していたため、この時にはもう殉死はなかったという。財政の問題もあり、4代綱村は御廟を建立しないよう遺言したそうである。

感仙殿の右手には妙雲界廟がある。左にあるのが9代藩主周宗の墓碑である。

こちらは11代藩主斉義夫妻の墓所である。正面が斉義夫人・芝姫の墓碑で、左の桜の木の向こうに見えるのが11代藩主斉義の墓碑である。

感仙殿への参道の両側には灯籠などの石造物が並んでいる。感仙殿前にあるコウヤマキの下には「新修先廟記の碑」が残されている。藩政時代、経ケ峯には伊達家三代の霊屋をはじめ全山に塔頭および支院が置かれていたが、明治維新後の廃仏毀釈により瑞鳳殿霊屋と感仙殿・善応殿の本殿以外はことごとく撤去もしくは取り壊しとなった。明治12年に経ケ峯を永久保存施設としたとの記念碑である。