半坪ビオトープの日記


10月初旬に福島に出かけた。福島駅から数km東に文知摺観音がある。文知摺とは、平安時代頃から狩衣などに使われた織物である。草木の紫や藍色で絹に、綾形石の石紋に似せた乱れ模様を付けたもので、信夫郡の文知摺絹はとりわけ有名であった。文知摺の乱れ模様は、心の乱れにかけて和歌に詠まれるようになった。入口の普門橋を渡ると社務所の右に芭蕉像が立っている。

境内に入るとすぐに大きな石碑がいくつも立っている。一番右の石碑は、明治18年に文知摺石を発掘した柴山郡長顕彰碑である。
その左の大きな石碑は、甲剛碑という。異様な文字は甲剛の古字で、金剛と同様に北斗を意味するとされる。北畠親房の筆になるものを子の顕家が建立したと伝えられている。その間の石垣の上に芭蕉の句碑がある。

芭蕉は門人曽良と共に元禄2年(1689)に文知摺石を訪ねて、次の句を詠んでいる。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺 芭蕉
句碑は京都の俳人、丈左房が寛政6年(1794)に追悼句会を開催し、自ら揮毫し霊山町の松青と協力し建立したものである。

この地には河原左大臣源融と虎女の伝説が残っている。京の都から陸奥国に按察使(あぜち)として赴任する途中で信夫に寄った源融と、山口長者の娘虎女との悲恋物語であり、「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」の歌が古今和歌集に収められている。
ひと月ほどの逗留のあと都に呼び戻された源融を偲んだ虎女は、文知摺石を麦草で鏡のように磨いて融の面影を映し出したが、衰弱して亡くなったという。そのため、この3.5×2mの文知摺石は、別名、鏡石という。

文知摺観音は、宝永6年(1709)安洞院三世漢補和尚の再興といわれ、観音堂には行基作と伝えられる木造観音が安置されている。

木造、重層、方3間、銅版葺き(もと板葺き)の多宝塔は、文化9年(1812)安洞院八世光隆和尚の建立と伝えられている。

内部には五智如来像を祀る厨子を安置している。多宝塔は関東以北には珍しく、これは東北唯一のものとして、県の重文に指定されている。
境内には観音堂、多宝塔のほか左大臣の歌碑、正岡子規の句碑、足止め地蔵尊、人肌石、美術資料館の傳光閣などがある。