半坪ビオトープの日記


聖林寺を有名にしたのは哲学者の和辻哲郎で「古寺巡礼」の中で、当時、奈良国立博物館にあった十一面観音菩薩立像の美しさを賞賛している。
明治11年(1878)に来日したアメリカの哲学者で東洋美術史家のフェノロサは、廃仏毀釈で日本中の寺院や仏像の半分が破壊されたことにショックを受け、日本美術の保護に尽力する。この十一面観音菩薩立像は、廃仏毀釈により慶応4年(1868)に大御輪寺(大神神社の神宮寺)の路傍に打ち捨てられていた。そこを通りかかった聖林寺の住職が見かねて持ち帰り、寺に保管していたという。たまたま見かけたフェノロサ岡倉天心らにより天平彫刻の傑作と激賞されることになった。フェノロサ観音菩薩を祀るための厨子を寄贈したという。本堂の本尊の脇にそのときの厨子がある。水原秋桜子の随想に、この厨子の扉を開けても上半身しか見えなかったというように、像高209cmの観音像には小さすぎたようだ。

ともかく明治時代から有名になったこの十一面観音菩薩像は、第一回国宝指定24仏のうちの一つでもある。
現在は、聖林寺の本堂から50mほど階段を上がった所にある、防災装置が施されていそうながっしりした観音堂(大悲殿)に安置されている。

パンフの切り抜きでは不鮮明だが、国宝の木心乾漆像は、フェノロサが感嘆したように優美で、特に右手の指先の表情が絶妙といえよう。
十一面観音菩薩への頂上に頭抜けている仏面は如来で、前三つは慈悲面、左三つが瞋怒(しんぬ)面、右三つが狗牙上出(ぐげじょうしゅつ)面、後ろの一つが暴悪大笑面となっている。

帰りがけに窓から談山神社のある南の方向を見ると、山々がいくつも重なって見えた。