半坪ビオトープの日記


早雲寺は元正18(1590)年、秀吉による小田原攻めの本陣として使われ、石垣山一夜城の完成後、秀吉にすべて焼き払われた。小田原落城後、四代氏政は切腹、五代氏直は高野山に追放され、翌年逝去して北條氏は滅びた。
氏政の弟、氏規が大坂狭山に狭山北條氏として秀吉に約一万石を許され、慶安元(1648)年に3代将軍家光による朱印状下付を得て早雲寺の再建、寛文12(1672)年の北條五代の墓の創建に、この狭山北條氏が尽力した。
ただし、戦国時代の壮大な伽藍を擁する早雲寺は再現できず、かなり規模が縮小してしまった。北條家五代の墓は、木立に囲まれた階段の上にひっそりと佇んでいた。

右から初代早雲(俗名、伊勢新九郎長氏)、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直と並ぶ。伊勢平氏の流れをくむ伊勢新九郎は、妹の縁で身を寄せていた今川家の駿河で功を立てた。
後に、今川家に仕えていた韮山城主北條行長が跡継ぎなく亡くなったため、一族に懇願されて行長の細君を娶ることで北條氏を承継した。そのとき伊勢新九郎は60歳ほどになっていたという。

同じ墓域に五代氏直の嫡男、氏次の墓があった。六代目となるが、実在したかどうか記録が見つからないそうだ。

墓地の入り口付近に大きな五輪塔がある。2代将軍徳川秀忠の侍医、今大路道三玄鑑の墓である。
秀忠に従い滞洛中、秀忠の正室お江の方の治療のため江戸に向かう途次、寛永3(1626)年、箱根湯本で亡くなったため早雲寺に葬られた。