半坪ビオトープの日記

鳴門、大塚国際美術館

昨年の暮れに、鳴門・直島・倉敷・岡山と、瀬戸内のいくつかの美術館を巡った。まずは、大塚国際美術館。大塚グループが創立75周年記念として鳴門市に設立した日本最大級の常設展示スペースを有する「陶板名画美術館」である。古代壁画から世界26カ国190余の美術館が所蔵する現代絵画まで、至宝の西洋名画1,000余点を特殊技術によって原寸大で複製している。鑑賞ルートは約4km。まずはミケランジェロによる「システィーナ礼拝堂天井画及び壁画」(ヴァティカン)。現地さながらのスケールの大きさに驚く。残念ながら左右の壁面は省略されているが、正面と背面、天井画はほぼ忠実に再現されていて、その努力に驚嘆する。正面の「最後の審判」の場面は、中央上部にキリストと聖母マリア、周りにペテロやパウロなどの聖人が配される。

システィーナ礼拝堂、壁画
右下には地獄行きの人々を威嚇するカロンが描かれ、ダンテの作品の影響が見られる。

システィーナ礼拝堂天井画
天井画のこの部分は、背面の入口上部から1/3ほど。下が入口上部。右下がヤコブとヨセフ。左下がエレアザレとマタン。その上が預言者ザカリア。その上がノアの泥酔、その上がノアの大洪水。その上がノアの燔祭。その後、楽園追放、アダムの創造、と続くので、天地創造を逆の順に見ている。

エル・グレコ「三位一体」
こちらは、エル・グレコによる「三位一体」(マドリードプラド美術館)。父・子(キリスト)・聖霊聖霊は、ハトの姿で描かれる。

幻のエル・グレコの大祭壇衝立画
こちらの祭壇は、ナポレオン戦争で破壊された、幻のエル・グレコの大祭壇衝立画を、故・神吉敬三教授の説に従って、推定復元されたもの。世界初の試みである。

エル・グレコ「オルガス伯爵の埋葬」
こちらは、エル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」(サント・トメ聖堂、トレド)。

「聖マルタン聖堂」

こちらは、「聖マルタン聖堂」。パリから南に約300km、ノアン・ヴィック村がある。ジョルジュ・サンドの館があることで知られるこの村に、397年に没した聖マルティヌスに捧げられた聖マルタン聖堂が建っている。聖堂全体のテーマが「最後の審判」に基づくとされ、複雑な壁や天井の随所に壁画が描かれている。

「聖ニコラオス・オルファノス聖堂の壁画」
こちらは、「聖ニコラオスオルファノス聖堂の壁画」。前315年、マケドニアカサンドロスが町を作り、妻の名に因んでテサロニアと名付けて以来、この町はマケドニアの首都として、東西交流の要衝として、ビザンティン帝国の第二の都として繁栄した。そのテサロニキの東側城壁の一隅に、聖ニコラオスオルファノス聖堂はひっそりと立っている。後期ビザンティン建築U字型ギャラリーと身廊にまたがり、聖人像や「キリストの生涯」などの物語絵が壁面を飾っている。創設は14世紀前半が想定されている。

ポンペイ秘儀荘の「秘儀の間」
こちらはポンペイ秘儀荘の「秘儀の間」。ポンペイでは城壁の外にも郊外別荘と呼ばれる豪邸が建設され、この秘儀荘もその一つで、名称はディオニソス秘儀という神秘的な信仰の様子を描いた壁画に由来する。ポンペイ壁画装飾第二様式による大壁画で辰砂を用いた「ポンペイ赤」により特に有名である。前70-50年頃。

マケドニア王家の人々」
こちらは前40年頃、第二様式の「マケドニア王家の人々」(ナポリ国立考古学博物館)。

「アレクサンダー・モザイク」
こちらは前100年頃の「アレクサンダー・モザイク」(ナポリ国立考古学博物館)。ポンペイのファウヌスの家出土のモザイク画で、紀元前4世紀にギリシャマケドニア軍を率いて東方に遠征したアレクサンドロス大王が、イッソスの戦いでペルシャ軍と戦う様子が描かれている。5.8×3.1の巨大なモザイクで、数百万個の石片が使われた。

「ナイル・モザイク」
こちらは前80年頃の「ナイル・モザイク」(パレストリーナ国立考古学博物館、イタリア)。巨大な舗床モザイク一面にナイル川流域の様子が克明に表現されている。こうした特定の地域の風景を描くトポグラフィアはアレクサンドリアで発達した絵画ジャンルであるが、前景の饗宴の描写などにローマ美術の特徴も見られる。

ジョット「スクロヴェーニ礼拝堂」壁画
こちらはイタリアのパドヴァにある、ジョットによる「スクロヴェーニ礼拝堂」の壁画。この壁画は、大塚国際美術館の作品の中でも最多の現地調査を行い、綿密で多岐にわたる調査を経て、「もう一つのスクロヴェーニ礼拝堂」を作ったという。当時黄金に匹敵するといわれたラピスラズリによるブルーが豊富に使われているこの礼拝堂の建設は、エンリコ・スクロヴェーニと父レジナルドという。壁面には「西洋絵画の父」とも呼ばれる、ジョットによるキリストと聖母マリアの生涯が描かれている。ジョットの最高傑作ともいわれるこの礼拝堂の壁画だが、その代表作として紹介されることの多い「ユダの接吻」も描かれているという。しかし、残念ながらそれには気付かなかった。

アギア・エカテリーニ修道院「デイシスとキリストの生涯」と「キリストの受難と復活」
上の板絵は、エジプトのシナイ山にあるアギア・エカテリーニ修道院の「デイシスとキリストの生涯」という12世紀の作品。中央に玉座のキリストを挟み、左に聖母、右に洗礼者ヨハネが並ぶ形は「デイシス」と呼ばれ、審判者キリストと、弁護士のように執りなす二人を表す。中期ビザンティン美術では、単独で用いられて、「最後の審判」を暗示する図像としてよく扱われるという。下の板絵は、上と同じ修道院の「キリストの受難と復活」という12世紀後半の作品。「エルサレム入城」、「キリスト磔刑」、「黄泉(よみ)に下るキリスト」の3場面が描かれる。

「聖キリクスと聖女ユリッタの祭壇前飾り」

こちらは、バルセロナカタルーニャ美術館所蔵の1100年頃の「聖キリクスと聖女ユリッタの祭壇前飾り」の作品。「ドゥーロの祭壇前飾り」ともいう。中央に聖母子、左に聖キリスク、右に聖女ユリッタの殉教場面が描かれる。

 



釈迦堂遺跡博物館

釈迦堂遺跡博物館
甲府盆地の東寄り、笛吹市にある釈迦堂遺跡は、19802月から8111月まで、中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。その結果、旧石器時代縄文時代古墳時代奈良時代平安時代の住居や墓、多量の土器、土偶、石器など30トンに及ぶ考古遺物が発見された。そして1988年に、それらを展示する釈迦堂遺跡博物館が開館した。

深鉢型土器
釈迦堂遺跡博物館の収蔵資料は、1116点の土偶をはじめとする全国有数の縄文時代中期の良好な資料として国の重要文化財5,599点)に指定されている。こちらの大型土器は、縄文時代中期中葉(5,3004,900年前)、高さ381mm、幅205mmの深鉢型土器である。幾つもの断片に割れているが、ここまで組み立てた努力に驚く。

石皿と磨石
釈迦堂遺跡博物館は、2020年にはリニューアルオープンした。こちらの石皿と磨石も縄文時代中期(5,5004,500年前)のもので、石皿の横は420mm、奥行きは270mmである。

黒曜石製の石鏃
こちらは黒曜石製の石鏃。同じく縄文時代中期(5,5004,500年前)のものである。他にも水晶製の石鏃もあった。それは縄文時代早期末葉〜中期(7,4004,500年前)のものである。石鏃とは、矢の先につける石のやじりのこと。

石匙
こちらは縄文時代中期(5,5004,500年前)の石匙。石匙とは黒曜石や頁岩、チャートなどで作った打製石器(剥片石器)の一種。動物の皮や肉、骨などの加工や、木や蔦など植物質の加工に用いた携帯型万能ナイフであり、スプーンではないので呼称を変更すべきとの意見もある。他にも土を掘る打製石斧や木を切る磨製石斧も展示されていた。

深鉢型土器
こちらの大型土器は、縄文時代中期後葉(4,9004,500年前)、高さ385mm、幅290mmの深鉢型土器である。釈迦堂遺跡出土の土器は、大型のものも多く、形態も様々で、飾りの文様にもいろいろな趣向が施されている。

浅鉢型土器
こちらの土器は、縄文時代中期後葉(4,9004,500年前)、高さ145mm、幅268mmの浅鉢型土器である。

土製耳飾り
こちらは土製耳飾り。右手の縄文時代中期(5,5004,500年前)の耳飾りは小さくてほぼ同じ形をしているが、左手の北杜市金生遺跡出土の縄文時代晩期(3,3002,400年前)の耳飾りは大型化し、文様も多種多様で個々人の趣向が生かされていると思われる。

「しゃこちゃん」「しゃっこちゃん」との愛称の土偶
釈迦堂遺跡では、1116点の土偶が出土し、全国の7%を占める。そのうち縄文時代前期のものが7個体、後期のものが1個体の他はすべて中期のものである。その数の多さ、形態の多様性が特色で、製作方法がわかったり、遠く離れて出土した土偶の接合関係がわかるなど、研究上欠かせない資料に恵まれている。土偶の部位別では、頭部が190点、胸部が168点、腕132点、胴から足にかけてが626点見つかっている。「しゃこちゃん」「しゃっこちゃん」との愛称がつけられたこちらの土偶は、いずれも縄文時代中期(5,5004,500年前)の土偶である。

前期土偶は板状土偶
縄文時代の草創期(16,00011,000年前)の土偶は顔や手足の表現はなく、乳房が強調された小さなものだったが、早期(11,0007,000年前)から前期(7,0005,500年前)になると、板状の土偶に変化する。釈迦堂遺跡出土の7点の前期土偶は、人の形を意識した板状土偶で、中でも頭部の4つの孔は顔の表現と考えられ、資料的価値が高いとされる。

有孔鍔付土器
この有孔鍔付土器とは、平らな口縁で、口縁下部を一周する鍔があり、鍔上部に均等に孔が穿たれた土器である。縄文時代中期の土器で、関東地方のものより中部地方のものが大型なので、山梨県や長野県が中心地と見られている。用途は太鼓説と酒樽説があり決着していない。このカエルの姿を貼り付けたような文様は非常に特異な意匠として注目される。右に見える釣手土器は、縄文時代のランプと呼ばれ、釣手が付いている。内面に煤がついているものもあり、儀礼時に使用されたと推測されている。

埋甕
こちらの大きな土器は埋甕(うめがめ)という。集落の一角に埋められ、中から骨片が出土したことから成人の再葬墓と考えられている。竪穴式住居の入り口付近で見つかった小さめの埋甕は子供の墓と考えられている。埋甕にも様々な文様が施されている。

水煙文土器
こちらの水煙文土器は、ダイナミックかつ緩やかで立体的な曲線に縁取られた縄文時代中期の逸品。新潟県十日町市の有名な火焔土器に対し、釈迦堂遺跡を代表する装飾土器とされる。高さ70cmと大型で迫力があり、優美で繊細な渦巻きでできた四つの把手を兼ね揃え、技術の高さを窺わせる。縄文人の美意識が感じ取れる。

深鉢型土器

こちらの大きな深鉢型土器も文様の複雑さ、奇抜さが目をひく。縄文時代中期中葉(5,500〜4,500年前)の装飾土器である。

このように釈迦堂遺跡出土品の土器や土偶5,599点は、重要文化財に指定されているが、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」の構成文化財ともなっている。滅多にない、見所の多い博物館であった。

 

芸術の森、文学館、甲斐善光寺

芸術の森公園の彫刻、「ケンタウロス
芸術の森公園は、山梨県立美術館と県立文学館を含み、6haもある広々とした園内随所に彫刻を配置した公園である。美術館前のこの黒い彫刻は、エミール=アントワーヌ・ブールデル作の「ケンタウロス1914)」であり、奥に見える白い彫刻は、岡本太郎作の「樹人(1971)」である。美術館のミレー館には、ジャン=フランソワ・ミレーの「種をまく人(1850)」「落穂拾い、夏(1853)」など有名な作品がたくさんあったが、残念ながら撮影禁止であった。他にも写実主義のギュスターブ・クールベバルビゾン派のジュール・デュプレなどの作品などがあった。

ヘンリー・ムーア作「四つに分かれた横たわる人体」
文学館前のこの彫刻は、ヘンリー・ムーア作の「四つに分かれた横たわる人体(1972-73)」である。

ザッキン作「ゴッホ記念像」
右の人物彫刻は、オシップ・ザッキン作の「ゴッホ記念像(1956)」である。左手奥の彫刻は、佐藤正明作の「ザ・ビッグアップルNo.452007)」である。

マイヨール作「裸のフローラ」
文学館手前の噴水の前に立つ女性像は、アリスティード・マイヨール作の「裸のフローラ(1911)」である。文学館内には山梨県出身の文学者のほか、湯村温泉卿に逗留して執筆していた太宰治芥川龍之介などの文豪の資料がたくさんあったが、残念ながら撮影禁止であった。

ロダン作「クロード・ロラン」
こちらの男性像は、オーギュスト・ロダン作の「クロード・ロラン(1880-92)」であり、右には先ほどの佐藤正明作「ザ・ビッグアップルNo.45」が見える。

甲府名物「ほうとう
お昼には甲府名物の「ほうとう」が食べられる店を探す。「郷土料理ほうとう信州」の「デラックスほうとう」は、ほうとうすいとんのように太いが、人気があるだけあってとてもおいしかった。

甲斐善光寺
甲府市にある甲斐善光寺は、浄土宗の寺院で、正式名称は定額山浄智院善光寺と称する。開基・甲斐国国主武田信玄が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、本尊善光寺如来像をはじめ諸仏寺宝類を奉遷したことに始まる。板垣の郷は、善光寺建立の大旦那・本田善光葬送の地と伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとく迎えた。その後、武田氏滅亡により、本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々とするが、慶長3年(1598信濃に帰座した。甲府では新たに前立仏を本尊と定め、現在に至る。

甲斐善光寺
武田信玄建立の七堂伽藍は、宝暦4年(1754)門前の失火により灰燼に帰した。現在の金堂は、寛政8年(1796)に再建されたものである。金堂は、善光寺建築に特有の撞木造りと呼ばれる形式で、総高27m、総奥行49mという、東日本で最大級といわれる木造建築で、重層建築の山門とともに重要文化財に指定されている。
 

金堂内部
金堂(本堂)中陣天井には巨大な龍2頭が描かれ、廊下の部分は吊り天井になっていて、手を叩くと多重反射による共鳴が起こり、「日本一の鳴き龍」と呼ばれている。本堂下には「心」の字をかたどる「戒壇廻り」もある。本尊は、建久6年(1195尾張の僧・定尊が、秘仏である信濃善光寺の前立仏として造立したものである。いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として著名である。
 


放光寺

放光寺 仁王門
甲州市円山藤木の恵林寺の少し北に、真言宗智山派に属する古刹、放光寺がある。山号は高橋山(こうきょうざん)。元暦元年(1184源平合戦で功績を立てた安田義定一ノ谷の戦いの戦勝を祈念して創建したという。仁王門は天正年間(1573-92)に再建されている。

仁王門の金剛力士
仁王門に安置されている金剛力士像は、放光寺が創建された鎌倉時代の元暦元年頃の造立で、大仏師・成朝の作と考えられている。木造・檜材の寄木造になる像高約263cmの立像で、国の重要文化財に指定されている。

サザンカ
境内には三百株のアジサイをはじめ、梅、椿、花桃、山吹、牡丹、レンギョウ、花菖蒲、萩、金木犀など四季折々の花が楽しめる、花の寺としても知られる。仁王門の脇で色鮮やかに咲き誇るのはサザンカであろう。

阿字門
仁王門から阿字門までの参道脇には牡丹や梅などの花木がたくさん植えられている。阿字門の先には本堂が垣間見られる。

放光寺本堂
放光寺本堂は桁行9間、梁間6間、一重入母屋造、銅板葺(元は茅葺)で、禅宗の方丈型である。『甲斐国志』によれば、放光寺の前身は山岳仏教の盛んな平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた天台宗寺院・高橋山多聞院法光寺であるという。平安後期には甲斐源氏の一族である安田義定(遠)が本拠とし、寿永3年(1184)に法光寺は義定の屋敷地に近い山梨郡藤木郷へと移転され、安田氏の菩提寺としたという。開山は賀賢上人。建久2年(1191)に義定が寄進した梵鐘銘によれば「法光寺」表記であり、「放光寺」表記の初見は戦国期の天文17年(1548)の寺領証文である。『甲斐国志』によれば、天正10年(1582)の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、その時放光寺本堂も焼失している。本堂の左手には愛染堂がある。

本堂
その後、寛文年間(1661-73)に柳沢吉保の援助を受け保田若狭守宗雪により本堂が再建された。本尊は大日如来金剛界の木造大日如来漆箔坐像。像高94.5cm。宝冠を戴き結跏趺坐し智拳印を結ぶ。作風から平安時代末期の円派の作と推定され、造立は創建以前と推定される。その本尊は宝物館に収蔵されている。

本堂内部
本堂の平面は南北に2列、東西に3列の6室からなり、南側に広縁、東西に入側を設けている。南面の中央は板敷、その奥が仏間で、来迎柱前面に須弥壇が設けられ、本尊を祀る厨子が安置されている。

宝物館と毘沙門堂
本堂に向かって左手に五輪塔と宝物館があり、その奥に毘沙門堂が見える。宝物館には本尊の木造大日如来坐像と、同じく平安時代作の木造不動明王立像(149.4c)、木造愛染明王坐像(89.4cm)が収蔵され、ともに国の重要文化財に指定されている。他にも武田氏奉納の大般若経六百巻が収蔵されている。放光寺には嘉永5年(1852)に浄土宗の僧・養鸕徹定(うがいてつじょう)により模写された法隆寺金堂壁画(阿弥陀浄土図模写)が所蔵され、現存最古の模写として注目されている。

愛染堂
本堂のすぐ左に愛染堂があり、そこに安置されている愛染明王も、珍しい天弓愛染明王像である。この愛染堂も天正年間(1573-92)に再建されている。

毘沙門堂と銅鐘
毘沙門堂の軒に吊るされている銅鐘は、鎌倉時代の梵鐘で、総高は105cm、口径は56cm。開基にあたる安田遠義定が建久2年(1191)に当初奉納し、その後建治元年(1275)、建武3年(1336)、貞治5年(1366)に改鋳された。県指定の有形文化財である。

天弓愛染明王坐像
宝物館は撮影禁止だが、毘沙門堂には日本最古の天弓愛染明王坐像の写真がある。

常滑大甕
同じく毘沙門堂には、平成6年の発掘で出土した常滑大甕や天目茶碗が展示されている。遺跡は中世の墓跡で、埋葬主体である大甕は13世紀後半だが被葬者は不明という。口径43cm、器高68.8cm、底径19cm。

鎧を着けた毘沙門天
同じく毘沙門堂には、鎧を着けた毘沙門天像が開祖像として安置されている。開祖とされる武将・安田義定の姿とされる。像高147.8cm、平安後期から鎌倉初期とされ、甲州市文化財に指定されている。

安田義定の廟所

本堂の左手、毘沙門堂の裏手に安田義定の廟所がある。寺伝によると、甲斐源氏中核の武将、安田義定は安田義清の四男として生まれ、治承4年、以仁王の令旨を奉じて平家打倒の旗を掲げ、富士川の戦いに大勝し、遠江守護に任ぜられた。元暦元年(1184)源義経の副手として平家追討に向かい、一の谷合戦では範頼・義経と並んで大将として軍功を治めた。建久5年(1194)些細なことから頼朝の勘気を被り、放光寺で自刃した。享年61歳。

 

清春芸術村

 

清春芸術村
西には南アルプス、北には八ヶ岳が迫り、富士山も遠望できる、山梨県西北部の北杜市長坂町に清春(きよはる)芸術村という芸術文化複合施設がある。清春白樺美術館安藤忠雄の光の美術館や、アトリエ、茶室、図書館などの施設からなる。

アトリエ「ラ・リューシュ」とオシップ・ザッキンの『メッセンジャー

清春芸術村および清春白樺美術館は、武者小路実篤志賀直哉をはじめとする白樺派同人による美術館構想を、親交のあった吉井長三1930-2016)が私財を投じて実現し吉井仁実が拡充している。吉井が1977年に小林秀雄今日出海白洲正子東山魁夷夫妻、谷口吉郎らとこの地に花見に訪れ、桜の美しさに魅せられて、1980年アトリエ清春荘を設立、翌年アトリエ「ラ・リューシュ」を建設した。手前の彫刻は、オシップ・ザッキンが制作した『メッセンジャー』である。

清春白樺美術館
村内に入るとすぐ目の前のアトリエ「ラ・リューシュ」の右手前に白樺図書館があり、その先に清春白樺美術館が建っている。谷口吉生の設計で1983年に開館した。『白樺』の同人が愛したルオーの作品をはじめ、梅原龍三郎岸田劉生バーナード・リーチ中川一政ら『白樺』の運動に参加した芸術家の諸作品と『白樺』の創刊号から最終号までを展示している。

ルオー礼拝堂
清春白樺美術館の左手にルオー礼拝堂が建っている。20世紀最高の宗教画家といわれるジョルジュ・ルオーを記念して谷口吉生により設計され、1986年に開堂された。

ステンドグラス「ブーケ」



ルオー礼拝堂入口扉上のステンドグラス「ブーケ」はルオーが制作したもの。14歳でステンドグラス職人に弟子入りしたルオーによるもの。これと内部のキリスト像はルオーの次女から吉井に寄贈されたもので、それが礼拝堂建設のきっかけとなった。

吉野祥太郎の「Strata of Time 時間の地層」
この時期「山梨国際芸術祭、八ヶ岳アート・エコロジー2023」が開催されていて、礼拝堂の中には、吉野祥太郎の「Strata of Time 時間の地層」が展示されていた。普段は、祭壇背後の壁に掲げられている、ルオーが彩色した木彫のキリスト十字架も壁際に垣間見られた。

光の美術館、落合陽一の『ヌルの共鳴時計』
ルオー礼拝堂の左手に安藤忠雄による設計で建てられた光の美術館がある。コンクリート打ちっぱなしの建物は、2011年の開館である。普段は、人工照明がなく自然光のみで作品を鑑賞する。この時期には、落合陽一の『ヌルの共鳴時計:計算機自然における空性の相互接続』という作品が展示されていた。

アトリエ「ラ・リューシュ」
光の美術館の向かいからは、アトリエ「ラ・リューシュ」がよく見える。若き日のシャガールやモジリアニなどの巨匠を生んだアトリエ兼住居として現在もパリの記念建築とされているものと同様の、ギュスターブ・エッフェルの建築。元は1900年に開催されたパリ万国博覧会のパビリオンに使用されていたもの。設計図を買い取り全く同じものを1981年に再現した。

谷尻誠の『石のサウナ』
これは建築家・DESIGN OFFICE・谷尻誠の『石のサウナ』という作品。蛇籠の中に地元で採れた石を積み上げている。中には3・4人ほど入れそうだ。右脇には水風呂用の風呂桶も用意されている。

茶室『徹』
さらに左手には、誰もがあっと驚くユニークな姿の一本足の茶室『徹』が立っている。細川元首相の別荘の茶室を設計したことでも有名な建築史家・藤森照信が設計したツリーハウス。茶室を支える檜は芸術村に植っていた樹齢80年の木を倒して使用し、屋根の銅板や壁の漆喰などは縄文建築団のメンバー、赤瀬川原平南伸坊林丈二らが手伝って建築された。高さは約4mで、室内は1.7坪になる。茶室『徹』の名は、吉井と親しかった哲学者の谷川徹三の名前から、作家の阿川弘之により命名された。

エッフェル塔の階段の一部、セザールによるエッフェル像
光の美術館と茶室の間には、エッフェル塔の階段の一部が展示されている。パリ名物の「鉄の貴婦人」エッフェル塔は、「橋作りの名人」と言われた建築家ギュスターブ・エッフェルが1889年に完成した。高さ300m、そのうち4階上部の180mが鉄製の螺旋階段となっていた。その階段を上った人は一億人以上という。老朽化したため24に分割された一部が、エッフェル塔完成百周年の1989年にフランスから芸術村に移設された。高さ約5m。左の彫刻は現代美術家セザール・バルダッチーノによるエッフェル像である。

梅原龍三郎のアトリエ
ルオー礼拝堂の右奥に、奔放自在な画風で日本の油彩画を確立したといわれる、梅原龍三郎18881986)のアトリエが建っている。このアトリエは1989年に新宿より移築したもので、設計は数寄屋造りや旧歌舞伎座の建築で有名な吉田五十八18941974)。

アトリエ内部
梅原が好んだ紅殻色の京壁や床間などを取り入れた24畳のアトリエには、使用していたイーゼルやパレット、絵の具箱のほか制作途中の絵画なども含め、梅原龍三郎の愛用品や作品が展示されている。
 

昇仙峡、金櫻神社

丹波山村
昨年の11月に昇仙峡など甲府周辺を巡った。中央高速ではなく青梅街道(大菩薩ライン)をのんびり通って紅葉を見ようとしたが、丹波山村辺りでも、残念ながらすでに散っているのか紅葉が少ないのか、期待通りの紅葉には巡り会えなかった。

鳳凰三山北岳甲斐駒ヶ岳
 
山梨県立博物館は撮影禁止だったが、敷地内から南アルプス前衛の山並みを見ることができた。欅の後ろには鳳凰三山、左手に辻山(2585m)、その左奥に日本第2位の北岳3193m)、欅の右手離れた所に甲斐駒ヶ岳が確認できる。

夕陽に染まる富士山
この日は甲府駅の北西にある神の湯温泉に泊まり、夕陽に染まる富士山を眺めることができた。

甲斐駒ヶ岳鳳凰三山
宿からも北西方向に南アルプスの山々がはっきりと見えた。いちばん右に甲斐駒ヶ岳2967m)、その左に一段と高く見えるのが鳳凰三山地蔵岳2764m・観音岳2841m・薬師岳2780m)。地蔵岳山頂のオベリスクがニョキっと突き出ているのがなんとか確認できる。この鳳凰三山は、高校生の時に級友たちと登った思い出深い山である。穴山駅から地蔵岳山頂まで標高差2300mを1日で登ったのは私の最高記録である。

日本第2位の北岳

鉄塔の右奥に見える、南アルプスの主峰・北岳(3193m)に登ったのは40年前の10月中旬。予想してなかった雪が20cmも降り積もって驚いたのを思い出す。

八ヶ岳
北北西方向、遠くには八ヶ岳も見えた。右手の一番高い山が主峰・赤岳(2899m)。その右が横岳(2829m)、赤岳の左手奥が阿弥陀岳2805m)、その左が権現岳2715m)と編笠山2524m)が確認できる。甲府盆地からは若かりし頃の思い出が詰まった山々が四方に眺められて懐かしい限りである。それにしても雲ひとつない快晴は珍しい。

御岳昇仙峡、覚円峰
御岳昇仙峡は甲府市北部に位置する渓谷で、「全国観光地百選渓谷の部第一位」の観光地として知られ、国の特別名勝に指定されている。この覚円峰は、昇仙峡のシンボルともいえる岩山で、高さは約180m、花崗岩が風化水食を受けてできたものである。昔、僧侶の覚円が畳を数枚敷くことのできる頂上で座禅を組んだことからその名が付いたという。

仙娥滝
昇仙峡の水は「平成の水百選」に選ばれている。仙娥滝は高さ約30mの大滝で、地殻変動により生じたものとされている。「仙娥」とは中国神話に登場する月に行った女性の名前「嫦娥」に由来しており、月のような優しさを持った滝という意味とされる。

金櫻神社
甲府の名勝・昇仙峡の奥に建つ金櫻(かなざくら)神社は、昇仙峡を上り詰めた地に鎮座する金峰山2595m)の五丈岩(高さ20m)を御神体とする神社である。

金櫻神社、拝殿
金櫻神社は、第10崇神天皇の御代に疫病退散と万民息災の祈願のため、金峰山山頂に祭神である少彦名命を祀ったのが起源とされ、奥宮は山頂にあり、金櫻神社は里宮にあたる。延喜式神名帳にも記載される。社記によれば、景行天皇40年、日本武尊が東征の途上、金峰山上に詣で、須佐之男尊大己貴命の二神を合祀したので祭神は三柱となった。天武天皇2年(674)に大和国吉野郡金峯山の蔵王権現を合祀して神仏両部となり蔵王権現と呼ばれた。明治に至り神仏分離した。

本殿
社宝として「火の玉、水の玉」の水晶が祀られ、当社の名前の由来となった御神木の「金櫻(鬱金桜)」は、古くから民謡にうたわれ、「金の成る木の金櫻」として崇められている。本殿は三間社流造、屋根は檜皮葺。
 

本殿の昇竜降竜

昭和30年に大火により社殿及び伝左甚五郎作の昇竜降竜は焼失したが、昭和34年(1959)に再建された。

境内から富士山
神社境内から10分ほど上がると富士山遥拝所があり金峰山も望めるが、境内からも富士山だけなら眺めることができる。
 

仁科神明宮宝物庫、穂高神社本宮

仁科神明宮歴史展示館
仁科神明宮三の鳥居の手前左手には宝物収蔵庫、右手には無料の歴史展示館が建っている。平安時代後期、現在の大町市社には伊勢神宮の荘園である仁科御厨(みくりや)があった。御厨を支配していた御厨の司が仁科氏で、伊勢神宮内宮を勧請して仁科神明宮を祀り、都の文化を取り入れた。仁科神明宮は伊勢神宮に倣い20年毎に本殿などの建替え(式年造替)を行ってきたが、仁科氏が滅亡した後、寛永13年(1636)を最後に部分的修理のみを行ってきた結果、伝統的な神明造の古い様式が残り、本殿・中門・釣屋が国宝に指定された。歴史展示館では、御厨や神明宮の歴史、仁科氏の関わりなどを資料展示している。

古式作始めの神事
伊勢神宮祈年祭に倣って、春の耕作始めに五穀豊穣を祈るのが仁科新三重宮の「古式作始めの神事」である。神楽殿の床を水田に見立て、鍬初から苗代づくり、種蒔、鳥追いまでの農作業を演じるもので、これは馬鍬掻きの場面。明治4年に廃止されたが、明治26年に復興された。現在、県の無形民俗文化財に指定されている。例祭では
太々神楽の奉納がある。

宝物収蔵庫、御正体
三の鳥居の左手に建つ宝物収蔵庫には、重文の御正体や棟札などが収蔵展示されている。神仏混合の考えでは、仏菩薩が日本に生まれ変わって神になったといわれ、神の本地(ほんじ、正体)を仏にあてている。神社を象徴する鏡形の檜材を銅板で覆ったものに、本地仏にあたる仏像をつけ、神社の拝殿扉にかけて礼拝することが行われた。これを御正体(みしょうたい)とも懸仏ともいう。仁科神明宮には銅製御正体が16面保存されているが、手彫りのもの1面と鋳造のもの11面は鎌倉時代の作で、打ち出しのもの四面は室町時代の作とされる。銘文のあるものが2面あり、弘安元年(1278)、弘安9年と記されている。5面が国の重要文化財に指定されている。

造営棟札
仁科神明宮は本殿・中門・釣屋の国宝で有名だが、式年遷宮祭でも知られる。伊勢の皇太神宮に倣い20年毎に社殿の造営を行う遷宮祭を行ってきた。南北朝の永和2年(1376)からの造営棟札が全て保存されている。600年を超えて一度も欠かさず奉仕されてきた記録は全国に例がなく、安政3年(1856)までの27枚は国の重要文化財に指定されている。

唐猫様
仁科神明宮には、「唐猫様」と伝わる動物を模った木像が残されている。風化が激しいが、元来は、神前に置かれた狛犬に似た像と考えられている。当地に残る民話では、唐猫様は雨乞いの神様で、旱魃の時、この像を筏の丸太に縛り付けて高瀬川に流し、水に落ちたら拾い上げて神明宮に戻すと雨が降るという。

神宮寺跡
三本杉手前の左手に神宮寺跡がある。仁科神明宮の神宮寺は、江戸時代には高野山西禅院の末寺として栄えていたが、明治維新廃仏毀釈で取り壊された。仏像などは現在、盛蓮寺に保管されている。仁科神明宮の祭神は天照大神だが、神仏習合では天照大神大日如来の仮の姿とされるため、御正体は大日如来を表現したものになっている。

穂高神社の本宮
海神(わたつみ)族の祖神である穂高見命を祭神に仰ぐ穂高神社の本宮(里宮)は、信州の中心ともいうべき安曇野市穂高にある。奥宮は北アルプス穂高岳の麓の上高地に祀られており、嶺宮は穂高見神が降臨したとされる奥穂高岳3190m)の頂上に鎮座している。創建は不詳。安曇郡に定着した安曇部氏により祖神が祀られたのが創始とされる。安曇氏の初見は、正倉院宝物の布袴にある天平宝宇8年(764)の墨書である。穂高神社の文献の初見は、天安3年(859211日に「宝宅神」に対して従五位下から従五位上への神階昇叙がなされたという記録である。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。

拝殿
拝殿奥に本殿三棟を垣間見ることができる。中殿の祭神は、穂高見命。別名を宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)。綿津見命の子。左殿の祭神は、綿津見命。右殿の祭神は、瓊瓊杵命。三棟の右手にある別宮の祭神は、天照大御神。中殿は穂高造といわれる穂高神社のみの独特の形式で、千木と勝男木が載せられている。その二本の勝男木が中央から左右の千木に斜めに立てかけられ、一説では釣り竿や船の櫓を水辺で立てかけた形という。海神を祀る神社に相応しい様式と見られる。

若宮社の末社
若宮社の末社群、左からほぼ隠れている八坂社(素戔嗚尊)、事比羅社(大物主神)、子安社(木花開耶比売命)、保食社(宇気母智命)、四神社(少名彦名命 八意思兼命 誉田別尊 蛭子神 猿田比古命)、一番右が摂社・若宮社(阿曇比羅夫、信濃中将)。

若宮社右手にも末社
一番大きな摂社・若宮社の右手にも、疫神社(素戔嗚尊)、秋葉社軻遇突智命)、八幡社(誉田別尊)、鹿島社(武甕槌命)の末社がある。

摂社の若宮社
摂社の若宮社に祀られている阿曇比羅夫は、穂高神社の祭神・穂高見神の後裔であり、安曇氏中興の偉人。若宮社の相殿に祀られている信濃中将は、御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる有名な人物。ものぐさだった若者(実は仁明天皇の孫だという)が、文徳天皇の御宇、甲斐・信濃の国司として国を治め穂高神社を造営したという。

阿曇比羅夫之像

阿曇比羅夫之像が境内入口近くに立っている。阿曇比羅夫は、七世紀中期に対朝鮮半島関係に活躍した官人、将軍。阿曇山背比良夫とも記す。大仁の冠位で百済国士を務めていたが、皇極元年(642)舒明天皇の死去に対して派遣された百済の弔使を伴い帰国し、百済の国情の乱れを報告した。百済義慈王に追放された王子翹岐(ぎょうぎ)が来朝した時、自分の家で保護した。斉明7年(661)百済が唐と新羅の連合軍により攻められ危急に陥った時、百済救援の前将軍に任ぜられ、後将軍阿部引田比羅夫らとともに軍を率いて渡韓することになり、天智元年(662)外征軍の大将軍として船170隻を率いて出征し、百済王子余豊璋を本国に送還して即位させたが、翌年白村江で戦死し、日本は大敗し、百済は滅んだ。当神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、その日は阿曇比羅夫の命日とされる。

これで栂池高原などの安曇野の昨夏の旅は終わった。