こちらは、「聖マルタン聖堂」。パリから南に約300km、ノアン・ヴィック村がある。ジョルジュ・サンドの館があることで知られるこの村に、397年に没した聖マルティヌスに捧げられた聖マルタン聖堂が建っている。聖堂全体のテーマが「最後の審判」に基づくとされ、複雑な壁や天井の随所に壁画が描かれている。
昨年の暮れに、鳴門・直島・倉敷・岡山と、瀬戸内のいくつかの美術館を巡った。まずは、大塚国際美術館。大塚グループが創立75周年記念として鳴門市に設立した日本最大級の常設展示スペースを有する「陶板名画美術館」である。古代壁画から世界26カ国190余の美術館が所蔵する現代絵画まで、至宝の西洋名画1,000余点を特殊技術によって原寸大で複製している。鑑賞ルートは約4km。まずはミケランジェロによる「システィーナ礼拝堂天井画及び壁画」(ヴァティカン)。現地さながらのスケールの大きさに驚く。残念ながら左右の壁面は省略されているが、正面と背面、天井画はほぼ忠実に再現されていて、その努力に驚嘆する。正面の「最後の審判」の場面は、中央上部にキリストと聖母マリア、周りにペテロやパウロなどの聖人が配される。
右下には地獄行きの人々を威嚇するカロンが描かれ、ダンテの作品の影響が見られる。
天井画のこの部分は、背面の入口上部から1/3ほど。下が入口上部。右下がヤコブとヨセフ。左下がエレアザレとマタン。その上が預言者ザカリア。その上がノアの泥酔、その上がノアの大洪水。その上がノアの燔祭。その後、楽園追放、アダムの創造、と続くので、天地創造を逆の順に見ている。
こちらは、エル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」(サント・トメ聖堂、トレド)。
こちらは、「聖ニコラオス・オルファノス聖堂の壁画」。前315年、マケドニア王カサンドロスが町を作り、妻の名に因んでテサロニアと名付けて以来、この町はマケドニアの首都として、東西交流の要衝として、ビザンティン帝国の第二の都として繁栄した。そのテサロニキの東側城壁の一隅に、聖ニコラオス・オルファノス聖堂はひっそりと立っている。後期ビザンティン建築のU字型ギャラリーと身廊にまたがり、聖人像や「キリストの生涯」などの物語絵が壁面を飾っている。創設は14世紀前半が想定されている。
こちらはポンペイ秘儀荘の「秘儀の間」。ポンペイでは城壁の外にも郊外別荘と呼ばれる豪邸が建設され、この秘儀荘もその一つで、名称はディオニソス秘儀という神秘的な信仰の様子を描いた壁画に由来する。ポンペイ壁画装飾第二様式による大壁画で辰砂を用いた「ポンペイ赤」により特に有名である。前70-50年頃。
こちらは前100年頃の「アレクサンダー・モザイク」(ナポリ国立考古学博物館)。ポンペイのファウヌスの家出土のモザイク画で、紀元前4世紀にギリシャのマケドニア軍を率いて東方に遠征したアレクサンドロス大王が、イッソスの戦いでペルシャ軍と戦う様子が描かれている。5.8m×3.1mの巨大なモザイクで、数百万個の石片が使われた。
こちらは前80年頃の「ナイル・モザイク」(パレストリーナ国立考古学博物館、イタリア)。巨大な舗床モザイク一面にナイル川流域の様子が克明に表現されている。こうした特定の地域の風景を描くトポグラフィアはアレクサンドリアで発達した絵画ジャンルであるが、前景の饗宴の描写などにローマ美術の特徴も見られる。
こちらはイタリアのパドヴァにある、ジョットによる「スクロヴェーニ礼拝堂」の壁画。この壁画は、大塚国際美術館の作品の中でも最多の現地調査を行い、綿密で多岐にわたる調査を経て、「もう一つのスクロヴェーニ礼拝堂」を作ったという。当時黄金に匹敵するといわれたラピスラズリによるブルーが豊富に使われているこの礼拝堂の建設は、エンリコ・スクロヴェーニと父レジナルドという。壁面には「西洋絵画の父」とも呼ばれる、ジョットによるキリストと聖母マリアの生涯が描かれている。ジョットの最高傑作ともいわれるこの礼拝堂の壁画だが、その代表作として紹介されることの多い「ユダの接吻」も描かれているという。しかし、残念ながらそれには気付かなかった。
釈迦堂遺跡博物館
甲府盆地の東寄り、笛吹市にある釈迦堂遺跡は、1980年2月から81年11月まで、中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。その結果、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓、多量の土器、土偶、石器など30トンに及ぶ考古遺物が発見された。そして1988年に、それらを展示する釈迦堂遺跡博物館が開館した。
釈迦堂遺跡博物館の収蔵資料は、1116点の土偶をはじめとする全国有数の縄文時代中期の良好な資料として国の重要文化財(5,599点)に指定されている。こちらの大型土器は、縄文時代中期中葉(5,300〜4,900年前)、高さ381mm、幅205mmの深鉢型土器である。幾つもの断片に割れているが、ここまで組み立てた努力に驚く。
釈迦堂遺跡博物館は、2020年にはリニューアルオープンした。こちらの石皿と磨石も縄文時代中期(5,500〜4,500年前)のもので、石皿の横は420mm、奥行きは270mmである。
こちらは黒曜石製の石鏃。同じく縄文時代中期(5,500〜4,500年前)のものである。他にも水晶製の石鏃もあった。それは縄文時代早期末葉〜中期(7,400〜4,500年前)のものである。石鏃とは、矢の先につける石のやじりのこと。
こちらは縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の石匙。石匙とは黒曜石や頁岩、チャートなどで作った打製石器(剥片石器)の一種。動物の皮や肉、骨などの加工や、木や蔦など植物質の加工に用いた携帯型万能ナイフであり、スプーンではないので呼称を変更すべきとの意見もある。他にも土を掘る打製石斧や木を切る磨製石斧も展示されていた。
こちらの大型土器は、縄文時代中期後葉(4,900〜4,500年前)、高さ385mm、幅290mmの深鉢型土器である。釈迦堂遺跡出土の土器は、大型のものも多く、形態も様々で、飾りの文様にもいろいろな趣向が施されている。
こちらの土器は、縄文時代中期後葉(4,900〜4,500年前)、高さ145mm、幅268mmの浅鉢型土器である。
こちらは土製耳飾り。右手の縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の耳飾りは小さくてほぼ同じ形をしているが、左手の北杜市金生遺跡出土の縄文時代晩期(3,300〜2,400年前)の耳飾りは大型化し、文様も多種多様で個々人の趣向が生かされていると思われる。
釈迦堂遺跡では、1116点の土偶が出土し、全国の7%を占める。そのうち縄文時代前期のものが7個体、後期のものが1個体の他はすべて中期のものである。その数の多さ、形態の多様性が特色で、製作方法がわかったり、遠く離れて出土した土偶の接合関係がわかるなど、研究上欠かせない資料に恵まれている。土偶の部位別では、頭部が190点、胸部が168点、腕132点、胴から足にかけてが626点見つかっている。「しゃこちゃん」「しゃっこちゃん」との愛称がつけられたこちらの土偶は、いずれも縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の土偶である。
縄文時代の草創期(16,000〜11,000年前)の土偶は顔や手足の表現はなく、乳房が強調された小さなものだったが、早期(11,000〜7,000年前)から前期(7,000〜5,500年前)になると、板状の土偶に変化する。釈迦堂遺跡出土の7点の前期土偶は、人の形を意識した板状土偶で、中でも頭部の4つの孔は顔の表現と考えられ、資料的価値が高いとされる。
この有孔鍔付土器とは、平らな口縁で、口縁下部を一周する鍔があり、鍔上部に均等に孔が穿たれた土器である。縄文時代中期の土器で、関東地方のものより中部地方のものが大型なので、山梨県や長野県が中心地と見られている。用途は太鼓説と酒樽説があり決着していない。このカエルの姿を貼り付けたような文様は非常に特異な意匠として注目される。右に見える釣手土器は、縄文時代のランプと呼ばれ、釣手が付いている。内面に煤がついているものもあり、儀礼時に使用されたと推測されている。
芸術の森、文学館、甲斐善光寺
芸術の森公園は、山梨県立美術館と県立文学館を含み、6haもある広々とした園内随所に彫刻を配置した公園である。美術館前のこの黒い彫刻は、エミール=アントワーヌ・ブールデル作の「ケンタウロス(1914)」であり、奥に見える白い彫刻は、岡本太郎作の「樹人(1971)」である。美術館のミレー館には、ジャン=フランソワ・ミレーの「種をまく人(1850)」「落穂拾い、夏(1853)」など有名な作品がたくさんあったが、残念ながら撮影禁止であった。他にも写実主義のギュスターブ・クールベやバルビゾン派のジュール・デュプレなどの作品などがあった。
文学館前のこの彫刻は、ヘンリー・ムーア作の「四つに分かれた横たわる人体(1972-73)」である。
文学館手前の噴水の前に立つ女性像は、アリスティード・マイヨール作の「裸のフローラ(1911)」である。文学館内には山梨県出身の文学者のほか、湯村温泉卿に逗留して執筆していた太宰治や芥川龍之介などの文豪の資料がたくさんあったが、残念ながら撮影禁止であった。
こちらの男性像は、オーギュスト・ロダン作の「クロード・ロラン(1880-92)」であり、右には先ほどの佐藤正明作「ザ・ビッグアップルNo.45」が見える。
金堂(本堂)中陣天井には巨大な龍2頭が描かれ、廊下の部分は吊り天井になっていて、手を叩くと多重反射による共鳴が起こり、「日本一の鳴き龍」と呼ばれている。本堂下には「心」の字をかたどる「戒壇廻り」もある。本尊は、建久6年(1195)尾張の僧・定尊が、秘仏である信濃善光寺の前立仏として造立したものである。いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として著名である。
放光寺
甲州市円山藤木の恵林寺の少し北に、真言宗智山派に属する古刹、放光寺がある。山号は高橋山(こうきょうざん)。元暦元年(1184)源平合戦で功績を立てた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を祈念して創建したという。仁王門は天正年間(1573-92)に再建されている。
仁王門に安置されている金剛力士像は、放光寺が創建された鎌倉時代の元暦元年頃の造立で、大仏師・成朝の作と考えられている。木造・檜材の寄木造になる像高約263cmの立像で、国の重要文化財に指定されている。
仁王門から阿字門までの参道脇には牡丹や梅などの花木がたくさん植えられている。阿字門の先には本堂が垣間見られる。
放光寺本堂は桁行9間、梁間6間、一重入母屋造、銅板葺(元は茅葺)で、禅宗の方丈型である。『甲斐国志』によれば、放光寺の前身は山岳仏教の盛んな平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた天台宗寺院・高橋山多聞院法光寺であるという。平安後期には甲斐源氏の一族である安田義定(遠江守)が本拠とし、寿永3年(1184)に法光寺は義定の屋敷地に近い山梨郡藤木郷へと移転され、安田氏の菩提寺としたという。開山は賀賢上人。建久2年(1191)に義定が寄進した梵鐘銘によれば「法光寺」表記であり、「放光寺」表記の初見は戦国期の天文17年(1548)の寺領証文である。『甲斐国志』によれば、天正10年(1582)の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、その時放光寺本堂も焼失している。本堂の左手には愛染堂がある。
その後、寛文年間(1661-73)に柳沢吉保の援助を受け保田若狭守宗雪により本堂が再建された。本尊は大日如来。金剛界の木造大日如来漆箔坐像。像高94.5cm。宝冠を戴き結跏趺坐し智拳印を結ぶ。作風から平安時代末期の円派の作と推定され、造立は創建以前と推定される。その本尊は宝物館に収蔵されている。
本堂に向かって左手に五輪塔と宝物館があり、その奥に毘沙門堂が見える。宝物館には本尊の木造大日如来坐像と、同じく平安時代作の木造不動明王立像(149.4cm)、木造愛染明王坐像(89.4cm)が収蔵され、ともに国の重要文化財に指定されている。他にも武田氏奉納の大般若経六百巻が収蔵されている。放光寺には嘉永5年(1852)に浄土宗の僧・養鸕徹定(うがいてつじょう)により模写された法隆寺金堂壁画(阿弥陀浄土図模写)が所蔵され、現存最古の模写として注目されている。
昇仙峡、金櫻神社
昨年の11月に昇仙峡など甲府周辺を巡った。中央高速ではなく青梅街道(大菩薩ライン)をのんびり通って紅葉を見ようとしたが、丹波山村辺りでも、残念ながらすでに散っているのか紅葉が少ないのか、期待通りの紅葉には巡り会えなかった。
山梨県立博物館は撮影禁止だったが、敷地内から南アルプス前衛の山並みを見ることができた。欅の後ろには鳳凰三山、左手に辻山(2585m)、その左奥に日本第2位の北岳(3193m)、欅の右手離れた所に甲斐駒ヶ岳が確認できる。
宿からも北西方向に南アルプスの山々がはっきりと見えた。いちばん右に甲斐駒ヶ岳(2967m)、その左に一段と高く見えるのが鳳凰三山(地蔵岳2764m・観音岳2841m・薬師岳2780m)。地蔵岳山頂のオベリスクがニョキっと突き出ているのがなんとか確認できる。この鳳凰三山は、高校生の時に級友たちと登った思い出深い山である。穴山駅から地蔵岳山頂まで標高差2300mを1日で登ったのは私の最高記録である。
日本第2位の北岳
鉄塔の右奥に見える、南アルプスの主峰・北岳(3193m)に登ったのは40年前の10月中旬。予想してなかった雪が20cmも降り積もって驚いたのを思い出す。
北北西方向、遠くには八ヶ岳も見えた。右手の一番高い山が主峰・赤岳(2899m)。その右が横岳(2829m)、赤岳の左手奥が阿弥陀岳(2805m)、その左が権現岳(2715m)と編笠山(2524m)が確認できる。甲府盆地からは若かりし頃の思い出が詰まった山々が四方に眺められて懐かしい限りである。それにしても雲ひとつない快晴は珍しい。
御岳昇仙峡は甲府市北部に位置する渓谷で、「全国観光地百選渓谷の部第一位」の観光地として知られ、国の特別名勝に指定されている。この覚円峰は、昇仙峡のシンボルともいえる岩山で、高さは約180m、花崗岩が風化水食を受けてできたものである。昔、僧侶の覚円が畳を数枚敷くことのできる頂上で座禅を組んだことからその名が付いたという。
昇仙峡の水は「平成の水百選」に選ばれている。仙娥滝は高さ約30mの大滝で、地殻変動により生じたものとされている。「仙娥」とは中国神話に登場する月に行った女性の名前「嫦娥」に由来しており、月のような優しさを持った滝という意味とされる。
仁科神明宮宝物庫、穂高神社本宮
仁科神明宮三の鳥居の手前左手には宝物収蔵庫、右手には無料の歴史展示館が建っている。平安時代後期、現在の大町市社には伊勢神宮の荘園である仁科御厨(みくりや)があった。御厨を支配していた御厨の司が仁科氏で、伊勢神宮内宮を勧請して仁科神明宮を祀り、都の文化を取り入れた。仁科神明宮は伊勢神宮に倣い20年毎に本殿などの建替え(式年造替)を行ってきたが、仁科氏が滅亡した後、寛永13年(1636)を最後に部分的修理のみを行ってきた結果、伝統的な神明造の古い様式が残り、本殿・中門・釣屋が国宝に指定された。歴史展示館では、御厨や神明宮の歴史、仁科氏の関わりなどを資料展示している。
伊勢神宮の祈年祭に倣って、春の耕作始めに五穀豊穣を祈るのが仁科新三重宮の「古式作始めの神事」である。神楽殿の床を水田に見立て、鍬初から苗代づくり、種蒔、鳥追いまでの農作業を演じるもので、これは馬鍬掻きの場面。明治4年に廃止されたが、明治26年に復興された。現在、県の無形民俗文化財に指定されている。例祭では
太々神楽の奉納がある。
宝物収蔵庫、御正体
三の鳥居の左手に建つ宝物収蔵庫には、重文の御正体や棟札などが収蔵展示されている。神仏混合の考えでは、仏菩薩が日本に生まれ変わって神になったといわれ、神の本地(ほんじ、正体)を仏にあてている。神社を象徴する鏡形の檜材を銅板で覆ったものに、本地仏にあたる仏像をつけ、神社の拝殿扉にかけて礼拝することが行われた。これを御正体(みしょうたい)とも懸仏ともいう。仁科神明宮には銅製御正体が16面保存されているが、手彫りのもの1面と鋳造のもの11面は鎌倉時代の作で、打ち出しのもの四面は室町時代の作とされる。銘文のあるものが2面あり、弘安元年(1278)、弘安9年と記されている。5面が国の重要文化財に指定されている。
仁科神明宮は本殿・中門・釣屋の国宝で有名だが、式年遷宮祭でも知られる。伊勢の皇太神宮に倣い20年毎に社殿の造営を行う遷宮祭を行ってきた。南北朝の永和2年(1376)からの造営棟札が全て保存されている。600年を超えて一度も欠かさず奉仕されてきた記録は全国に例がなく、安政3年(1856)までの27枚は国の重要文化財に指定されている。
仁科神明宮には、「唐猫様」と伝わる動物を模った木像が残されている。風化が激しいが、元来は、神前に置かれた狛犬に似た像と考えられている。当地に残る民話では、唐猫様は雨乞いの神様で、旱魃の時、この像を筏の丸太に縛り付けて高瀬川に流し、水に落ちたら拾い上げて神明宮に戻すと雨が降るという。
三本杉手前の左手に神宮寺跡がある。仁科神明宮の神宮寺は、江戸時代には高野山西禅院の末寺として栄えていたが、明治維新の廃仏毀釈で取り壊された。仏像などは現在、盛蓮寺に保管されている。仁科神明宮の祭神は天照大神だが、神仏習合では天照大神は大日如来の仮の姿とされるため、御正体は大日如来を表現したものになっている。
海神(わたつみ)族の祖神である穂高見命を祭神に仰ぐ穂高神社の本宮(里宮)は、信州の中心ともいうべき安曇野市穂高にある。奥宮は北アルプス穂高岳の麓の上高地に祀られており、嶺宮は穂高見神が降臨したとされる奥穂高岳(3190m)の頂上に鎮座している。創建は不詳。安曇郡に定着した安曇部氏により祖神が祀られたのが創始とされる。安曇氏の初見は、正倉院宝物の布袴にある天平宝宇8年(764)の墨書である。穂高神社の文献の初見は、天安3年(859)2月11日に「宝宅神」に対して従五位下から従五位上への神階昇叙がなされたという記録である。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。
拝殿奥に本殿三棟を垣間見ることができる。中殿の祭神は、穂高見命。別名を宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)。綿津見命の子。左殿の祭神は、綿津見命。右殿の祭神は、瓊瓊杵命。三棟の右手にある別宮の祭神は、天照大御神。中殿は穂高造といわれる穂高神社のみの独特の形式で、千木と勝男木が載せられている。その二本の勝男木が中央から左右の千木に斜めに立てかけられ、一説では釣り竿や船の櫓を水辺で立てかけた形という。海神を祀る神社に相応しい様式と見られる。
若宮社の末社群、左からほぼ隠れている八坂社(素戔嗚尊)、事比羅社(大物主神)、子安社(木花開耶比売命)、保食社(宇気母智命)、四神社(少名彦名命 八意思兼命 誉田別尊 蛭子神 猿田比古命)、一番右が摂社・若宮社(阿曇比羅夫、信濃中将)。
摂社の若宮社に祀られている阿曇比羅夫は、穂高神社の祭神・穂高見神の後裔であり、安曇氏中興の偉人。若宮社の相殿に祀られている信濃中将は、御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる有名な人物。ものぐさだった若者(実は仁明天皇の孫だという)が、文徳天皇の御宇、甲斐・信濃の国司として国を治め穂高神社を造営したという。
阿曇比羅夫之像が境内入口近くに立っている。阿曇比羅夫は、七世紀中期に対朝鮮半島関係に活躍した官人、将軍。阿曇山背比良夫とも記す。大仁の冠位で百済国士を務めていたが、皇極元年(642)舒明天皇の死去に対して派遣された百済の弔使を伴い帰国し、百済の国情の乱れを報告した。百済義慈王に追放された王子翹岐(ぎょうぎ)が来朝した時、自分の家で保護した。斉明7年(661)百済が唐と新羅の連合軍により攻められ危急に陥った時、百済救援の前将軍に任ぜられ、後将軍阿部引田比羅夫らとともに軍を率いて渡韓することになり、天智元年(662)外征軍の大将軍として船170隻を率いて出征し、百済王子余豊璋を本国に送還して即位させたが、翌年白村江で戦死し、日本は大敗し、百済は滅んだ。当神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、その日は阿曇比羅夫の命日とされる。