半坪ビオトープの日記

仁科神明宮

 

仁科神明宮

大町市の東南部の仁科の森に日本最古の神明造を誇る国宝・仁科神明宮が鎮座している。仁科神明宮の一の鳥居を潜って200mほど参道を進んだ傍に駐車場があり、社号標の先の境内に入ると、かなり先の手水舎の左手前に三本杉が見える。さらにその手前左手に神宮寺跡がある。

三本杉
仁科神明宮の大杉・三本杉は県の天然記念物に指定されている。最大の杉の樹高45m、目通り幹囲6.4m、樹齢は800年とされる。中央の一本は1979年に突風により倒れ、今は根本部分だけが元の場所に保存されている。

二の鳥居
手水舎で石畳の参道は左に折れ、木造の二の鳥居の先に石段と三の鳥居が見える。左手には社務所とその先に宝物収蔵庫がある。三の鳥居は1993年に遷宮が行われた伊勢神宮の鳥居を移築され設けられている。

三の鳥居
木造の三の鳥居の先に神門が建っていて、すぐ後ろ一段上がった所にある拝殿や本殿を囲んでいるのが見える。長野県内の神社で神門を設けていることは珍しい。

神門

神門と拝殿は国宝にはなっていないが、かなり格式高く造られている。神門の右手に立つ小さな末社は八幡社である。

 

神門左手の末社
神門の左手にも末社が並んでいる。一番右から伊豆社、稲荷社、上加茂社と続く。

さらに左手にも末社
さらに左手前に折れて下加茂社、上諏訪社、下諏訪社、九頭龍社、子安社と並ぶ。

楽殿
神門の右手前には神楽殿が建っている。神楽殿の右手前にも末社が並ぶ。左から簀社、武山社、愛宕社、熊野社、白山社、鹿島社、春日社、三島社、北野社と続き、さらに二の鳥居の右手奥にも疱瘡社、胡社、山の神社、都波岐社がある。ちなみに珍しい最初の簀(すのこ)社の祭神は穂高見命であり、胡社の祭神は金山彦命であり、都波岐社の祭神は猿田彦命である。

元の御神木の切り株
拝殿の右手には元の御神木が切り株だけ残されている。昔は「仁科神明宮の大杉」と呼ばれ、根回り15m、目通り9m超あったが昭和55年に枯死した。現在の御神木は本殿の後ろにある。

拝殿

仁科神明宮の創始は不明だが、皇大神宮御領であった仁科御厨(みくりや)の鎮護のため、仁科氏によって伊勢神宮内宮が勧請されたことに基づく。建久3年(1192)二所大神宮神主が職事の仰せによって神領の仔細を注進したものを編輯した「皇大神宮建久己下古文書」によれば、当時信濃国には麻績・長田・藤長および仁科の四御厨しかなく、仁科に限り「件御厨往古建立也、度々被下宣旨、所停止御厨内濫行也」と注記されるが、信濃国最古の御厨とされる。拝殿は桁行三間梁間二間の切妻造となっている。

拝殿
拝殿内部には「神明宮」の扁額が掲げられ、格子戸で仕切られた拝殿の背後には中門が備えられている。

拝殿内部の扁額と祓幣
扁額の下には大きな御幣の束が備えられているが、このようにたくさんの紙垂を用い、大きな束にしたものを祓幣という。

拝殿、中門、釣屋、本殿
横から眺めると、拝殿、中門、釣屋、本殿と続いている様子がよくわかる。社殿の形は伊勢神宮と同じ神明造りであり、江戸時代初頭の寛永13年(1636)以後は、それ以前建てられた社殿の部分修理にとどまってきたため、本殿・中門・釣屋は日本最古の神明造りの形を遺しているとして、昭和11年に国宝に指定されている。中門は切妻造檜皮葺きの屋根に四本の柱が設けられた四脚門で、江戸時代中期の建築様式を残している。本殿と中門を寛永13年(1636)に建立した大工は、金原周防守。釣屋は本殿と中門の間を垂木、檜皮葺の切り妻の屋根で繋いでいる。

本殿
反対側から眺めると、本殿は桁行三間梁間二間の神明造で、平千木と六本の鰹木、太い棟木と檜皮葺きの屋根を支える太い棟持柱、さらには破風板にそれぞれ四本の鞭懸があるなど古式の内宮式神明造りの特徴をよく表している。
 
 

安曇野、小谷温泉、白馬大出

安曇野市豊科郷土博物館
栂池高原の前後にも安曇野や白馬、小谷など長野県北西部を訪ねた。最初は安曇野市豊科郷土博物館。安曇野は西に北アルプスの山が聳え、東には犀川が流れる自然豊かな地域で、大昔から人が住み約400ヶ所もの遺跡が知られている。約5000年前の縄文時代の南松原遺跡から出土した土器には個性あふれる紋様が飾られている。弥生時代前期(約2400年前)の東日本では土葬・風葬の遺体から遺骨を取り出し壺に再び埋める再葬墓が造られた。ほうろく屋敷遺跡再葬墓からは縄文時代の土器と弥生時代の土器が出土している。

オフネ祭りの木偶
信濃国は十州に境を接し、その真ん中に安曇野は位置する。海のない安曇野で、船を模った山車を引き回す「オフネ」祭りが行われている。昔、安曇野は湖だった、そこを蹴破って水を海に流し、人が住めるようにしたという泉小太郎の伝説は、安曇野と海との関わりを今に伝える。安曇野のオフネ祭りは現在も市内の30余の神社で行われている。元禄2年(1689)の記録が残る、穂高神社の御船祭りのオフネには、桧、蚊帳などで歴史的場面や伝説などを表現したヤマ(山)という部分が作られ、木偶と呼ばれる人形で飾られる。有名なこの「穂高神社の御船祭りの習俗」は、長野県無形文化財に指定されている。

高瀬渓谷、大町ダム
初日は大町温泉の南に流れる高瀬川沿いの葛温泉に泊まる。高瀬川沿いには大町ダム・七倉ダム・高瀬ダムの3つのダムがあり、葛温泉一帯を含め高瀬渓谷と呼ぶ。巨大ダムと紅葉の絶景は県内有数の景勝地だが、紅葉の見頃は10月中旬から11月上旬である。秘境の高瀬ダムは一般車両立ち入り禁止となっている。下流の大町ダムには展望台があり龍神湖と大町方面が望める。

大町ダム湖龍神
大町ダム湖龍神湖とも呼ばれるが、地元に伝わる民話「犀龍と泉小太郎」に由来している。昔、安曇野にあった湖の主の犀龍と山向こうの池の白龍王との間に生まれた日光泉小太郎は、湖の辺りに住む老夫婦により人間の子として育てられた。その後、ダムの地尾入沢で再会した親子は心が通じ、犀龍は小太郎を背に乗せ、山清路の岩盤を打ち破って湖の水を日本海へ落とし、安曇野を豊かな平野にしたという。その犀龍の伝説と水の神にちなんで龍神湖と名付けられたという。「オフネ」祭りにも通じる伝説である。

小谷温泉
翌日は仁科三湖を北上し、栂池高原を見てからさらに北の小谷(おたり)温泉に泊まった。妙高戸隠連山国立公園の標高850mの山腹にあり、弘治元年(1555)に川中島の決戦の折、武田信玄の家臣によって発見され、450年以上の長期にわたり名湯と謳われ、湯治宿として親しまれてきた。なかでも元湯の源泉は、明治時代にはドイツで開催された万国霊泉博覧会に日本を代表する温泉として、登別、草津、別府、小谷の4つが出泉された名泉である。江戸時代建築の本館をはじめ木造建築6棟が文化庁登録有形文化財に指定されている。

小谷温泉
本館の茶の間の左手に受付がある。旅館の中心に位置する元湯は100年以上変わらぬ浴槽で、大正ロマンを感じる造りとなっている。外湯の展望風呂も一望千里、開放感に溢れ四季のうつろいが感じられる温泉である。

江戸期建築の本館
本館のこの茶の間をはじめ、お座敷、客室の江戸期建築のほか、明治期の客室、大正期の新館客室、平成の別館客室もそれぞれ趣きのある風情を湛えている。

本館の外観
本館は木造3階建てで、見事な欅の柱や梁で豪雪に耐えてきた重厚な造りである。新館は大正3年建築の木造3階建てで、地元の宮大工の棟梁・山岸市太郎の手によるもので、丸太の通し柱など当館建物の象徴的な一棟である。江戸、明治、大正、平成と各時代に建築された建物が軒を連ね、昔ながらの湯治場の風情を大切に残している。小谷温泉には元湯と新湯の自然湧出の自家源泉があり、完全源泉掛け流しで提供され、飲泉効果も高いナトリウム炭酸水素塩泉という良質の温泉である。

大出の吊橋
白馬と鬼無里を結ぶ国道406号の白馬川の入り口が大出地区で、姫川に架かる吊橋が大出の吊橋である。

大出の吊橋
大出の吊橋の周辺には、茅葺き屋根の建物や水車小屋などがある。

姫川両岸の大出公園
吊橋から下流、姫川両岸一帯が大出公園として整備され、橋の向こう側下流に向かって右側の右岸沿いに遊歩道があり、その先の眺望テラスや展望台まで行って振り返ると、西には姫川の彼方に白馬岳、杓子岳、白馬鑓ヶ岳の白馬散々を中心に北アルプスの秀峰が見渡せる。しかし、残念ながら時間の都合でそこまではいけなかった。

アスター・アルマポシュケ
吊り橋の袂に咲いていた色鮮やかなアスターは、アスター・アルマポシュケという園芸品種である。ポシュケとはドイツで有名な育種家の名前だそうだ。それにしてもずいぶん大きな株に仕上げたものだ。

観音堂
大出の吊橋のそばに観音堂が建っている。数年前に建て直されたようで、観音様には腕がない。火災で持ち出す時に折れたとか、子供がソリに乗せて遊んでいるうちに折れたとか、村人に親しまれているようだ。
 
 

栂池高原自然園

栂池高原自然園
さらに右手を眺めると、自然園から白馬大池方面の尾根が見えるが、おおかた雲に覆われていた。

オヤマリンドウ
この青紫色の花は、日本特産種のオヤマリンドウ(Gentiana makinoi)。中部地方以北の亜高山帯や湿原、草地に生える多年草。茎の先端部に花を多数つける。花弁は5裂するが平開しない。秋の湿原を代表する花の一つといえよう。

クルマユリ
こちらの百合も秋の高原でよく見かけるクルマユリLilium medeoloides)。高さは30100cm。茎の上部に1〜数個の花がつく。6枚の花被片はオレンジ色で、濃紅色の斑点がある。葉が茎の中央部で6〜15枚輪生し、上部に3〜4枚まばらにつく。北海道や中部地方以北と、大台ヶ原と四国の剣山の高山帯〜亜高山帯の草原に自生する。中国、朝鮮半島、サハリン、カムチャッカ半島、千島列島など冷涼地に生育する。

モミジカラマツ
この白い花は、キンポウゲ科のモミジカラマツ(Trautvetteria caroliniensis var. japonica)という宿根性多年草。北海道と中部地方以北の高山帯の湿り気のある場所に生える。高さは4060cm。花茎の先に散房花序の白い花を多数つける。花弁はなく、白く見えるのは雄蕊である。葉は掌状に裂ける。花の形は近縁種のカラマツソウによく似るが、葉の形がモミジ様になることで区別できる。

イブキトラノオ
こちらのタデ科の花は、イブキトラノオBistorta officinalis)という多年草。北海道から九州の山地帯から高山帯に分布し、日当たりの良い草地に群生する。高さは50120cm。花茎の先に長さ6cm前後の白色か淡紅色の花穂をつける。花弁の様に見えるのは萼で、深く5裂する。根は硬く肥大し、漢方では「拳参(けんじん)」と呼び、乾燥したものを煎じて、口内炎扁桃腺炎、湿疹、下痢、痔疾などの薬とする。

自然園は浮島湿原(1920m)からさらに進むと展望湿原(2010m)や展望台まで至るが、浮島湿原で引き返す。この白い花はオニシモツケFilipendula camtschatica)という多年草。北海道と本州中部以北に分布し、深山のやや湿った場所に自生する。高さは1.5〜2mになる。葉は茎に互生し、奇数羽状複葉で葉柄があり、掌状に5裂する。茎先に小さな5弁花を散房状につける。

ヒオウギアヤメ
こちらの紫色のアヤメの花は、ヒオウギアヤメIris setosa)という多年草。本州中部以北の高層湿原や北海道の霧多布湿原などに自生する。高さは4070cm。円形または心形の外花被片は大きく、網目模様がある。内花被片は小さく目立たない。花柱は3つに分かれ花びら状に見える。その花柱の基部は黄色。花はアヤメによく似るが、内花被片が小さく、葉もヒオウギに似るが広くて異なる。

オニシオガマ

シソ科のオドリコソウに似るこのピンクの花は、ゴマノハグサ科シオガマギク属のオニシオガマ (Pedicularis nipponica)という多年草。 石川県から青森県の本州日本海側に分布し、深山の湿った谷間などに群生する。高さは40〜100cm。葉は対生し、5枚前後の大型の根生葉は羽状に全裂し、裂片は深く裂け、両面に白毛がつく。茎につく葉は小型で羽裂せず、上部のものは苞になる。花期は8〜9月で淡紅紫色の花が下段から上段に咲いていく。上唇は舟を伏せたような形で、中に雄蕊が4本、下唇は3裂して広がる。

オタカラコウ
こちらのキク科の黄色い花は、オタカラコウLigularia fischerii)という多年草。本州(福島県以西)、四国、九州の山地から亜高山帯の湿った草原に自生する。ヒマラヤや東アジアにも分布する。フキのような根生葉は数個つき、長さ2040cm、幅2030cmの腎心形。茎の上部に頭花を総状につける。頭花には8個内外の舌状花がある。

ミズバショウ湿原
散策の最後にやや北側にあるミズバショウ湿原を通って戻る。ここのミズバショウは本州で一番遅咲きといわれ、6月下旬から7月上旬まで楽しめるというが、さすがに8月上旬では、大きくなったミズバショウの葉が左手前にあるだけで、今まで見てきたオタカラコウやオニシオガマの花の背後にはオニシモツケの群生が広がっている。自然園の入口から浮島湿原まで行き引き返した約2時間の湿原散策は久しぶりに見る数々の花で賑わっていた。

唐松沢氷河
帰りの栂池ロープウェイから大きな雪渓が二つ認められたが、右手のものは杓子沢雪渓と思われる。その左手(南)のものも非常に大きな雪渓である。乗務員の説明によると、唐松岳2969m)の中腹に白く大きく見えるのは、唐松沢氷河(17502280m)だという。2018年に白馬村、新潟大などが結成した「唐松沢氷河調査団」による調査結果の論文に基づき、2019年に日本雪氷学会にて「氷河」であることが学術的に確認されたそうだ。ちなみに白馬大雪渓は、雪渓の下がトンネル状で流動が確認できないため「雪渓」に分類されるという。
 

栂池高原自然園

栂池高原自然園、タマガワホトトギス
今年は春に佐渡、初夏に五島列島に出掛け、8月初旬には長野県の栂池高原を散策した。麓の栂池高原駅(839m)からゴンドラリフトで栂の森駅(1582m)に行き、ロープウェイに乗り換えて自然園駅(1829m)まで上がる。足腰が弱くなったので、リフトなどが利用できるのはまことに助かる。途中の乗り換え駅付近で、黄色いタマガワホトトギスTricyrtis latifolia)の花を見つけた。日本各地の山地に生える多年草で、高さは30100cmになる。茎先の散房花序に黄色で内側に紫褐色の斑点がある花を2〜3個つける。京都の玉川にあるヤマブキの黄色の花を思い出してこの名が名付けられたという。

ミヤマシシウド
その近くに、大きなミヤマシシウド(Angelica pubescens var. matsumurae)の花が咲いていた。本州の高山に生える多年草で、高さは1mに達する。葉は2〜3回3出複葉で、茎先に大きな複散形花序をだし、白色の小さな花を多数開く。

サラシナショウマ
ロープウェイの自然園駅から400mのビジターセンターから自然園に入る。途中で見かけた、フサフサしたトラノオのような白い花は、キンポウゲ科サラシナショウマCimicifuga simplex)。日本各地の落葉樹林内や草原などに生える多年草。高さは40150cmになる。茎先の総状花序に柄のある白い小さな花を蜜につける。雄蕊は多数、雌蕊は2〜8個で柄がある。

風穴に残雪
20分ほど木道を歩くと、道端の岩の間に残雪が垣間見られた。冷たい風が吹き出す風穴だ。

キヌガサソウ
大きな葉が輪生する真ん中にすでに花後になったキヌガサソウParis japonica)の姿があった。本州中部地方以北(日本海側)の深山に生える多年草で、倒卵状楕円形で長さ2030cmの葉が8〜10枚輪生する。白い花弁のように見える外花被片は6〜11個あり、花後紅紫色を帯び、果期に薄緑色になる。緑色の子房がすでに膨らみ始めている。液果は後に黒紫色に熟し、甘くなり食べられ芳香がある。1属1種の日本固有種で、本種のみでキヌガサソウ属を構成する。

ワタスゲ湿原
ようやくワタスゲ湿原となる。ここまではほぼ平らの木道で、標高はまだ1870mほどである。

ワタスゲ
ワタスゲeriophorum vaginatum)もあちこちに見つけられるが、球状の果穂は盛りを過ぎている感じだ。ワタスゲ中部地方以北および北海道の高層湿原に生える多年草で、花期は6〜7月、白い綿毛を風に靡かせる姿は高層湿原ならではの風情がある。

ミツガシワ
こちらの白い花も高層湿原でよく見かけるミツガシワ(Menyanthes trifoliata)。ミツガシワ属の1属1種の多年草。日本を含む北半球の主として寒冷地に分布し、高層湿原や低地の浅い水中に生える。花茎の先に総状に白い花をつける。ニホンジカの大好物で、尾瀬などでの被害は甚大とされる。氷河期からの残存種といわれる。

ミソガワソウ
こちらの紫色の花は、シソ科イヌハッカ属のミソガワソウNepeta subsessilis)という多年草。日本固有種で、北海道、本州中部地方以北、四国の石鎚山に分布し、亜高山帯の草地や深山の渓流沿いなどに群生する。花冠は紫色。唇型で上唇は浅く2裂し、下唇は3裂する。和名は、木曽川源流部の長野県の味噌川に由来する。

浮島湿原

ワタスゲ湿原を過ぎると岩がゴロゴロ積み重なる坂道を抜けて浮島湿原に出る。晴れていれば行く手に白馬岳(2932m)が見えるのだが、雲に遮られて見えない。ここから見えるのは、白馬岳より右手前の小蓮華山(2766m)と思われる。白馬岳は今から30年ほど前に白馬大雪渓から登ったことがあるが、残念ながら懐かしいのは景色より当時の足腰・体力である。

タテヤマリンドウ
丸いイワイチョウの葉の間に見える小さな花は、タテヤマリンドウGentiana thunbergia f. minor)という多年草である。北海道および本州中部地方以北の日本海側に分布し、高山・亜高山帯の湿地に自生する、日本固有種。高さは10cm前後。花冠は5裂し、裂片間に副片があり10枚に見える。淡青紫色〜帯紫白色の花を茎先に1個ずつ咲かす。

ミヤマアキノキリンソウ
こちらの黄色い花は、登山道でよく見かけるミヤマアキノキリンソウSolidago virgaurea subsp. leiocarpa)。日本のほか北半球の高山や草原などに広く生える多年草。高さは1070cmで、黄色い頭花は円錐状または穂状に集まって咲く。別名、コガネギク。
 
 
 

奥浦湾、堂崎教会、福江城跡

奥浦湾
五島最終日は福江島を大急ぎで一周し、五島におけるキリスト教復活の拠点とされる堂崎教会へ行く時間が取れた。福江港から北へ、久賀島に面した堂崎教会には、手前に設けられた観光客用の駐車場から奥浦湾に沿って歩いて進む。すると、引き潮で干上がった海辺に、複雑怪奇な岩が積み重なる不思議な光景に出会った。丸い小山は、前小島という。

干潮の奥浦湾
福江島の海岸地帯には特徴的な地質が現れるジオサイトが幾つもある。西の大瀬崎、北の魚津ヶ崎は訪れたが、他にも南の鎧瀬溶岩海岸や各地の白浜海岸など合わせて20ヶ所以上ある。前小島付近の岩石群とは別に、手前には丸い岩などがゴロゴロ、ゴツゴツと砂地の上に顔を出している。満潮になれば水の中に沈んで見えなくなりそうだ。

干潮の奥浦湾
五島列島の大部分の地質は、五島層群と呼ばれる新第三紀中新世に堆積した砂岩、泥岩、及び安山岩質凝灰岩などで構成されている。その基盤層に花崗岩玄武岩が岩脈として貫入している。福江島玄武岩の噴火活動時期は洪積世〜沖積世である。地形分類図によると、この奥浦湾周辺は、小起伏山地から大起伏丘陵地の境界付近であり、地質図によると奥浦層と五島花崗岩類との境界付近である。小島の方には平べったく割れた石が積み重なっている。

堂崎のリンゴ石
手前の丸い二つの石は、花崗岩が球状に風化したもので、「堂崎のリンゴ石」という呼び名もあるという。1500万年ほど前にできた福江島最大級の花崗岩類の塊(岩床)が、奥浦の平蔵付近から樫ノ浦、堂崎を通って久賀島南岸に達しているそうで、堂崎湾内では小島の角石が風化して円形になったようだ。形もそうだが、色違いの層状に地層が重なっているように見えるのが珍しい。堂崎教会を訪れる時には、ぜひとも干潮時間帯に合わせて「堂崎のリンゴ石」を見ることを推奨する。

堂崎教会=堂崎天主堂
堂崎教会=堂崎天主堂は、明治初期にキリシタン迫害が行われた五島市奥浦地区の海岸沿いに建つ教会である。五島列島で最初に建てられた福江島を代表する天主堂で、日本二十六聖人の一人で五島出身のヨハネ五島に捧げられた記念聖堂でもある。

堂崎教会
禁教令が解かれた後、五島キリシタン復興の任を帯びて、フランス人宣教師・フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって五島における最初の天主堂(木造)が建てられた。その後着任したペルー神父によって1908年に、現在のレンガ造りの教会堂が完成した。

堂崎教会内部
建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれ、内部は木造で色ガラス窓、コウモリ天井などの教会堂建築となっている。現在は、弾圧の歴史や資料展示する資料館として一般公開されている。

マルマン神父とペルー神父の銅像
天主堂の正面向かいには、マルマン神父とペルー神父の銅像が建っている。座って両脇に小さな子供を抱いているのが初代主任司祭・マルマン神父である。右に立っているのが2代目主任司祭・ペルー神父である。

石田城(福江城)跡
堂崎教会から福江の町に戻り、城下町の名残を少しだけ垣間見る。幕末に建てられた石田城(福江城)も見事な石垣が印象的である。五島家第30代当主・盛成により、黒船の来航に備えて1863年に建てられた日本最後の城は、わずか9年後に明治政府により解体された。現在は本丸跡に五島高校が建てられ、北の一角には城山神社がある。この小さな門は南西の城壁に設けられたもの。

武家屋敷通りの石垣

江戸時代、五島藩の城下町として栄えた福江の町中には、石田城跡や溶岩塊の石垣など風情ある景観があちこちに残っている。特に約400mにわたって続く武家屋敷通りの石垣は圧巻である。

これで6月初旬、4泊5日の五島列島の旅を終える。遣唐使からキリシタンと教会、そして西海国立公園認定、潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産になるなど、観光で賑わう現在まで、五島列島の歴史は奥深い。とりわけ五島列島にはキリスト教の教会が51ヶ所も残っている。そのうちおよそ30ヶ所を大急ぎで巡ってきたが、世界遺産に登録された野島崎の集落跡に残る旧野首教会は日程不足で残念ながら断念した。壮絶な迫害・弾圧に耐えて命懸けで信仰を守った五島列島の信徒たちの信仰心には尊敬の念を抱くとともに、秀吉から徳川幕府へと続く禁教政策の理不尽さに憤りを感じざるを得なかった。

明星院

明星院前のサギ
福江島の南西部を見た後、南岸を東進し、福江の町近くの郊外に明星院という寺院の前に来た。のどかな田園地帯で、獲物を探している大きなサギを数羽見かけた。翼の色が青味がかった灰色で、飛んだ時に見える風切羽が黒いサギは、日本最大のサギといわれるアオサギとわかる。手前のサギはアオサギのメスか幼鳥か。右手の白鷺は、大きいのでダイサギと思われる。

明星院山門
明星院は五島における真言宗の本山で、五島家代々の祈願所である。正式には、宝珠山吉祥寺明星院という。五島八十八ケ所札所第一番である。

明星院境内
山門をくぐると大きな庫裏があり、幾つも建物が並んでいる。左手の参道の突き当たりにこじんまりとした本堂が建ち、その右隣に護摩堂が立っている。

明星院の本堂

明星院の現在の本堂は、第28代五島藩主・盛運公が、安永7年(1778)に火災で焼失したものを再建したもので、五島最古の木造建造物である。昭和45年(1970)銅板屋根の葺替え修復を行った。檜の芯柱20本が使用されている。本尊は虚空蔵菩薩で、脇仏は地蔵菩薩阿弥陀如来である。2015年に日本遺産に認定された。延暦23年(804)に空海が唐から帰朝する途中にこの寺に籠り、朝の明星を見てこの名を寺につけたと伝えられている。

本堂格天井の花鳥画
本堂格天井には121枚の花鳥画が極彩色に描かれており、五島藩絵師で狩野派の大坪玄能筆と伝えられているが、残念ながら撮影禁止だったので、ポスターの写真を撮った。

護摩

護摩堂は、五島八十八ケ所札所第二番である。本堂の後ろの裏山の階段を上ると行者堂があり、五島八十八ケ所札所第四番となっている。五島八十八ケ所札所は、福江島だけで構成され、明星院だけでも3ヶ所が数えられている。観音堂地蔵堂などが非常に多い。

護摩堂の本尊
護摩堂の本尊は、平安時代の春日作と伝えられる、青い不動明王であり、両脇の制吒迦童子と衿羯羅童子は第27代藩主が寄進したものである。

金銅薬師如来立像と大師像
脇仏とされる右手の金銅薬師如来立像は、容姿より飛鳥後期作と推定され、655年、斉明天皇即位の年に奈良大和倉造止利一派作と伝わる。国の指定文化財となっている。左手の大師像は、4月21日の「お大師様」の行事の際に、護摩堂の中央に安置して供養を受ける大師像と思われる。

阿弥陀三尊像
こちらの阿弥陀三尊像の中央は、平安後期作とされる木造阿弥陀如来、脇侍は鎌倉時代作とされる勢至菩薩観音菩薩である。阿弥陀如来立像は県の重要文化財に指定されている。

子安大師像
境内には様々な銅像が安置されている。これは子安大師像。玉之浦町大宝寺でも見かけた幼子を抱いた弘法大師空海銅像である。

大師像と弘法大師入唐帰朝顕彰碑
こちらにも新しい弘法大師空海銅像があり、その右手前には、弘法大師入唐帰朝顕彰碑が立っている。どちらも奇特な信者が寄進したものであろう。

弘法大師空海銅像
こちらも弘法大師空海銅像と思われるが、かなり古くて詳細はわからない。
 
 
 
 

井持浦教会、大宝寺

井持浦教会
玉之浦町の大瀬崎周辺には、井持浦教会と玉之浦教会がある。この玉之浦一帯は、五島に迫害の嵐が吹き荒れた明治初期、唯一迫害を免れた地区である。井持浦教会は、五島の他の教会と同じく、江戸末期に大村藩から移り住んだ潜伏キリシタンにより信仰の歴史が始まった。伝承によると、大村藩が側近のキリシタン鶴田沢右衛門を五島に流刑にしたところ、五島の藩主は領地であった玉之浦の立谷(大宝寺所有)を与え、そこに住むことを許したという。玉之浦湾の塩漬用の塩が重要な産業だったためと、島の中心地から非常に遠隔地だったことが、迫害を免れた理由と推測されている。明治30年(1897)、全五島の宣教と司牧を委ねられたフランス人宣教師ペルー師の指導により、リブ・ヴォールト天井を有するレンガ造りの立派な教会が建設された。島内における木造からレンガ造りへの移行のハシリと位置付けられている。その後、大正13年(1924)にアーケードを堂内に取り込む改築が行われた。初のロマネスク教会として名を馳せたが、昭和62年(1987)、台風の被害のため取り壊され、翌年、現在のコンクリート造の井持浦教会が建立された。

井持浦教会のルルド
井持浦教会のルルドは、日本最初のルルドとして知られる。フランスのルルドの洞窟に聖母が現れたのは1858年とされ、1864年に聖母像が安置された。1891年にバチカンルルドの洞窟が再現され、世界各地にルルドの洞窟が作られるようになった。それを聞きつけた五島司牧の責任者ペルー神父は、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め、1899年、日本で最初のルルドの洞窟をここ井持浦天主堂脇に作った。ここの霊水を飲むと病が治るといわれ、日本全国の信者の聖地となっている。

西の高野山大宝寺
井持浦教会や大瀬崎のある長い半島の根元付近に大宝寺がある。大宝元年701)に中国から来朝した三論宗の開祖・道融和尚が三論宗大宝寺を創建したと伝わる五島最古の寺であり、第41持統天皇勅願寺である。その後、大同元年(806)に、第16遣唐使随行していた空海が唐からの帰国の際に大宝寺の付近に漂着し、国内初となる真言密教の講釈をされたという。このことから三論宗を改宗させたといわれ、真言宗総本山の高野山に対し、大宝寺を西の高野山と呼ぶようになった。

大宝寺
山門を潜ると正面に「虚往実帰」と彫られた大きな石碑が目につく。「虚往実帰」とは、弘法大師空海が「荘子」から引用した言葉である。往きは不安で虚しい気持ちだが、師や先生の教えを受け、充実した心で帰る、という意味である。遣唐使として唐に渡り、様々な知識を携えて帰国した空海自身の感慨が込められている。医薬の知識を買われて遣唐使に推薦された空海だが、医薬に加えて密教、土木技術なども習得して帰朝した。

大宝寺本殿
その昔、西天竺のマガタ国より不須(ふすう)仙人がやって来て、エンダゴンという
鋳造の聖観世音菩薩像を奉持し、玉之浦笹海(さざめ)の小高い丘に祀って観音院と称したと伝えられる。その聖観音像は、信濃善光寺、東京浅草の観音と共に日本三大秘仏の一つという。大宝寺の正式名称は弥勒山観音院大宝寺という。本殿には、最澄が自ら彫って寄進したという十一面観音や左甚五郎作と伝わる猿の彫刻もあり、大宝寺は日本遺産の構成文化財として追加認定された。寺院に注連縄が掛けられているのは珍しい。大宝寺は、五島八十八ケ所巡拝の八十八番札所である。

大宝寺護摩
五島八十八ケ所札所は、寺院が30ヶ寺、58ヶ所が地蔵堂観音堂である。30寺院の12ヶ寺が真言宗18ヶ寺は浄土宗と曹洞宗、宗派に関係なく札所は島の各地に点在している。本堂横にある大宝寺護摩堂は、五島八十八ケ所札所の八十七番であり、不動明王が安置されている。

「奇縁氷人の石」
「虚往実帰」という石碑の他にも境内には様々なものが安置されている。右手にあるのは「奇縁氷人の石」。氷人とはとりもち役のことで、観音様のご縁により必ず願いが叶えられる「縁結びの石」だという。

鐘楼
境内には鐘楼もあるが、この他に別棟で、県指定有形文化財の梵鐘も展示されている。それは、1375播磨国多賀郡西林寺の僧・増進が渡唐に際し、航海安全を祈願して寄進したという、高さ95.5cm、口径56cmの梵鐘で、豊前国小倉の鋳物氏師・藤原顕宗が作者である。

空海銅像
真言宗の寺院にはどこにでも弘法大師空海銅像があるが、この像は珍しく幼子を抱いている。四国巡錫の途次、難産で苦しむ女人に加持祈祷すると安産したという、霊徳を姿にしたようだ。

大師堂
左手の大師堂には、「弘法大師霊場 祈願お砂奉安 四国八十八ヶ所巡拝御砂踏處」と書かれている。四国八十八か所霊場の札所にある砂を地面に埋めて、そのうえを歩いて参拝することで全ての霊場を参拝したのと同じ効力があるとされる。

大師堂
大宝寺には、仏像の他にも室町時代の涅槃図、日本最古という大般若経などがある。

大師堂
こちらには祖師像や弘法大師像などが祀られているようだ。

本堂内
本堂に入って内陣を眺めると、天女が仏の周りを舞っているような大きな欄間の彫刻が目を引く。左右に立つ金剛力士像も本堂にあるのは珍しい。大黒天尊・愛染明王・阿修羅等の仏像が並ぶ。内陣中央には千手観世音菩薩立像があり、その奥に本尊の聖観世音菩薩が安置されている。