半坪ビオトープの日記

中村海岸、一之森神社、八王子神社

中村海岸の妖怪像「さざえ鬼」

ゲゲゲの鬼太郎」で知られる漫画家水木しげるの故郷、境港の「水木しげるロード」にはたくさんの妖怪像が設置されているが、白島海岸の東、中村地区「武良郷」は、本名の姓「武良」から水木氏のルーツとされている。隠岐の島には妖怪像が10個以上設置されているが、この中村海岸にも「さざえ鬼」の妖怪像がある。月夜の晩には浮かれて踊る、30年以上生きたサザエの妖怪。出会った人は踊りが上手くなるという。

「さざえ丼」

中村海岸には「さざえ村」というさざえ料理店がある。人気メニューの「さざえ丼」は、サザエにあご出汁が効いた甘辛の卵とじで、とても美味しい。

「さざえカレー」
「さざえカレー」は普通のカレーにサザエが入っているだけで、ちょっと期待外れだった。他にも「突き牛カレー」や岩牡蠣などのメニューがあった。

一之森神社
中村集落の裏手に一之森神社がある。玉若酢命神社の「御霊会風流」と水若酢神社の「祭礼風流」とともに隠岐三大祭の一つである「隠岐武良祭風流」が行われる神社として知られる。

一之森神社の鳥居と神門
長い石段を上がっていくと大きな木製の鳥居が立ち、その先にしっかりとした神門が建てられている。この神社で隔年で開催される武良祭は、建久四年(1204鎌倉幕府佐々木定綱隠岐守護職に任じた際、天候不順で困窮した隠岐に故国の近江国から日月の神を勧請して日神を元屋の八王子神社に、月神を中村の常楽寺に奉斎し、日月陰陽和合の祭事を執り行ったところ、人畜は無病息災、五穀は豊穣となったことに由来するという。後で八王子神社も訪ねてみる。

一之森神社の拝殿
一之森神社の主祭神天児屋根命とし、月夜見尊応神天皇、大山咋尊、蛭子尊、櫛御気奴野命を配祀する。櫛御気奴野命は一般的には須佐之男命とされている。武良祭風流の中心は月夜見尊であり、月を表すウサギを神体としているところから、通称「月天さん(月天子社)」と呼ばれているという。武良祭風流では、日神・月神の神体を1丈4尺4寸(約4)の竿を頭上に捧げて御幸する。尊像は宝珠の円盤に日神は「三本足の烏」を、月神は「白兎」を浮き彫りにしている。密教の守護神の十二天の中に、日天子と月天子がいて、「三本足の烏」「兎」を持つ像容もある。日天・月天は太陽神と月神で、神道では天照大御神と月読尊に相当する。

拝殿入口の奉納画
拝殿の入り口に奉納画が掛けられている。男性が角髪(みずら)という古代の髪型なので、主祭神天児屋根命かもしれない。『古事記』によれば、天児屋根命天照大御神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱えたとされるので、その様子かもしれない。天児屋根命祝詞の神様と言われている。

本殿の妻飾りの二重虹梁には大瓶束や笈形
本殿の妻飾りの二重虹梁には、珍しく豊臣家の紋として有名な「五三の桐」の彫刻が掲げられ、その上の大瓶束の両側の笈形も堂々としている。拝み懸魚と降り懸魚も施されるなど、本殿建築の意匠に強い装飾意欲が感じられる。

境内社四社
社殿右裏手に四社境内社が認められたが、詳細は不明。濵田神社や西里趣明神などが祀られているそうだが、確認できなかった。

八王子神社の鳥居と随神門
一之森神社と田圃を挟んで向かいの元屋(がんや)に、日神・日天が安置されている八王子神社がある。境内からは六世紀ごろの土器が発見されて、古代に何らかの祭祀の場であったと考えられている。赤茶色の屋根の随神門の先に拝殿が見える。

八王子神社の拝殿
八王子神社の現在の祭神は天照大神とされるが、社名から祭神は八王子であった可能性が高い。八王子とは須佐男尊と天照大神の誓約によって生まれた五男三女神を呼ぶ場合と、須佐之男命の八柱の御子を呼ぶ場合や、須佐之男命を牛頭天王と解釈し、牛頭天王の8人の王子神を呼ぶ場合がある。日天・月天から神仏習合が強く想定され、最後の例が相当すると思われる。拝殿の扉は閉められていて中を見ることはできなかった。
 
 
 

白島展望台

白島と沖ノ島灯台

隠岐島後の北端に伸びる白島崎と、その沖に浮かぶ白島、沖ノ島、松島、小白島を合わせて白島と呼ぶ。遠くに見える灯台沖ノ島灯台という。

タチツボスミレ
紫色の小さなスミレが道端に咲いていた。スミレの仲間はよく似ていて、いつも同定に困る。だがこのスミレは日本本土に広く分布する、最もありふれたタチツボスミレViola grypoceras)であろう。

国境の島々への道標
こんなところに奇妙な道標が立てられていた。竹島対馬国後島尖閣諸島という国境の島々の名とそこまでの距離が記されている。ここが竹島に最も近いことから立てられたのだろう。竹島は日本、韓国、北朝鮮が領有権を主張する無人島だったが、現在は韓国の武装警察が常駐し実効支配している。

タチツボスミレ
こちらのスミレも先ほどのスミレより少し色が淡いが、やはりタチツボスミレであろう。

沖ノ島、白島、小白島
再び白島が見えるようになったが、小さな灯台が見える島が沖ノ島。天然記念物のオオミズナギドリの繁殖地として知られ、白島神社がある。そのすぐ右手の島が白島。右手、東側の白い岩肌が印象的で、名の由来である。その右手前の小島が小白島。小白島には象が鼻という形の岩が知られる。白島の手前に幾重にも連なる尾根が白島崎。その左手陰に松島があるが隠れて見えない。この白島から島後の東部にある布施の浄土が浦まで、たくさんの小島、岩場があり、数えてみると九十九あった。百に一つ足りないことから「白島」の名が付いたと伝えられている。昔、隠岐の国に流された小野篁は、海原に点在するたくさんの岩や島の姿に心を奪われ、この美しくも遥かな景色に都のことが偲ばれて、「わたのはら 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよあまのつり舟」と詠んだ。この歌は古今和歌集に載せられているが、ここ白島見物のときに作られたと伝えられている。

白島海岸
足下の視界が開け、よく見渡せるようになった。正面の白島だけでなく、どの島の崖も白い岩肌を見せている。約550万年前の火山岩である白い粗面岩(トラカイト)は、優白質であるが石英をほとんど含まず、アルカリ長石を主成分とする火山岩で、日本ではあまり産しない。長い年月の風化や浸食によってこのような絶景が作り上げられた。ここ隠岐は、ユネスコ世界ジオパーク2013年に認定されていて、白島海岸のように「大地の成り立ち」を知ることができる奇岩・絶壁などの景勝地が各地で紹介されている。

コバルトブルーに輝く美しい海
手前の眼下には、コバルトブルーに輝く美しい海に浸食の激しい小島が特異な風景を見せている。この辺りの黒っぽい岩は、玄武岩である。草木のない禿げた小島に塔のように伸びた赤い岩が突き出て複雑な地質が認められる。

崎山鼻や海苔田鼻などの岬
右手の東南方向を眺めると、崎山鼻や海苔田鼻などの岬が突き出ているのを見ることができる。海苔田鼻先端には、隠岐世界ジオパークを代表する奇岩の一つ、鎧岩が立つ。柱状節理の茶色の粗面岩の上に放射状摂理を持つ黒い玄武岩が乗っていて、あたかも鎌倉武士が身に纏っていた大鎧を思わせる姿は神秘的な景観で、国の天然記念物に指定されているという。中村海水浴場から徒歩30分というが時間の都合で見に行くのを断念した。

白島埼灯台
白島展望台からの帰り道、ふと上を見上げると、木立の間から灯台の先端が垣間見えた。白島埼灯台で、歩いても行けそうだったが省略した。
 
 

伊勢命神社

伊勢命神社
五箇には多くの見所があるが、そこは最終日に回して、五箇の北部にある久見の集落の氏神である、伊勢命神社を訪れた。隠岐4大社の一つであるけれども、小さい集落に見合ってか、境内地は小さい。それでも久見は西日本最大の黒曜石の産地であった。2017年には、旧石器時代の久見の宮ノ尾遺跡が、黒曜石の採掘から石器製作までの「原産地遺跡」だったと発表された。隠岐の黒曜石石器は中国地方を中心に西日本各地に運ばれたという。約2万2千年から1万6千年前の後期旧石器時代の槍先形尖頭器の石器の特徴から、東日本から移動してきた旧石器人が作ったと見られている。

伊勢命神社、随神門

創建は不明だが、社家の伝えによれば、伊勢族が隠岐島に来住した当初、毎夜に海上を照らしながらやって来る神火(怪しい火)があり、それが現鎮座地の南西5.5km隔たった字仮屋の地に留まるので、その地に小祠を建てて祖神である伊勢明神を勧請奉斎したところ神火の出現も止んだといい、その祠を後に現在地に遷座したものであるという。正倉院文書の天平4年(732)『隠岐国正税帳』には役道(穏地)郡の少領として磯部直万得という名が見え、また島前ではあるが平城京出土木簡に知夫里評の石部真佐支との名が見えるので、隠岐国に磯部(石部)が置かれていたことがわかる。磯部は『古事記応神天皇段に海部とともに設置されたと記す「伊勢部」のこととみられ、磯部を介した伊勢との関係が窺える。当社の創祀には磯部氏を頂点とする海民の動きが推察される。ここにも随神門と瑞垣が設けられている。

伊勢命神社、拝殿

祭神として祀る伊勢命は、他に見えない隠岐国独自の神であるが、神名や磯部との関係から、海人を介して伊勢地方と深く繋がる神と推察されている。また、祈雨に効験があるとの信仰もあるという。

拝殿
六国史の『続日本後紀』嘉祥元年(84811月壬申条に名神大社列格の理由が明示されている。中世以降は武家により崇敬され、近世以降は八幡氏により継承されている。

伊勢命神社の本殿
伊勢命神社の本殿は、天保9年の久見集落を焼き尽くす大火により焼失した後、天保12年(1841)に再建された隠岐造の3間社で、玉若酢命神社や水若酢神社の2社に次ぐ規模である。屋根は昭和43年に銅板葺とされた。本殿及び拝殿は、隠岐の島町有形文化財に指定されている。

伊勢命神社の本殿
例祭には夜を徹して久見神楽が奉納される。この久見神楽は、国の選択無形民俗文化財島根県の無形民俗文化財に指定されている。なお、神社近辺に放生会田、会串田、鏡餅田などの地名があり、かつては両部神道による神事が行われていたと推測されている。

本殿の妻飾り
本殿の妻飾りを見ると、ここもまた、水若酢神社の本殿と同様、二重虹梁と平三斗の組み合わせが重厚な趣をなしている。

本殿の妻飾り

しかしよく見ると、水若酢神社の本殿の妻飾りと打って変わって、二重虹梁と平三斗の周りに細長い龍が2匹、くねくねとまとわりついて頭や胴を垣間見せている。向拝に龍が絡みつく意匠はよく見かけるが、妻飾りの二重虹梁の間にこんな趣のある龍を施すのは特異といえよう。

熊野大明神
境内社として、熊野大明神が祀られている。

左手には若宮大明神、中央左に愛宕大明神、中央真ん中に三笠大山大明神、中央右に住吉大明神、右手には稲荷大明神
他にも境内社が並ぶ。左手には若宮大明神、中央左に愛宕大明神、中央真ん中に三笠大山大明神、中央右に住吉大明神、右手には稲荷大明神が祀られている。
 

隠岐の島町、水若酢神社

水若酢神社、一の鳥居
一昨年の対馬、昨夏の壱岐に続き、今年の4月には隠岐の島を訪れた。いずれも、日本海に浮かぶ島で、古い歴史に包まれていて興味が尽きない。旧石器時代の黒曜石の産地でもあった隠岐の島には縄文遺跡もあり、古墳時代には300基以上の古墳が築かれたという。神社も150座以上あると伝わり、延喜式神名帳に記載された神社も16座あり、そのうち伊勢命神社・水若酢神社・宇受賀命神社・由良比女神社の4座が大社である。島根の本土側では出雲大社熊野大社の2座だけであることを鑑みても、当時の隠岐の重要性が窺える。なおかつ名のある神社がたくさん現在も実質的に機能していることが注目される。出雲空港を経由して隠岐空港に着き、すぐさま島後(隠岐の島町)を北西に向かい、島の北西部の玄関港である五箇の中心部にある、水若酢神社を訪れた。ここも名神大社の一つである。これが金属製の一の鳥居。

二の鳥居
一の鳥居の奥に木製の二の鳥居が建ち、その先に随神門が建つ。水若酢神社の由緒に関する古文書のほとんどが中世期に兵火等で失われて、創建は不詳である。現在地は江戸時代前期の延宝6年(1678)以来の鎮座とされる。その際の鎮座地の選定は、神獣の白鷺が当地の松に止まったことによるといい、二の鳥居付近に「明神の松」が生育していたが、昭和46年(1971)に枯死している。

土俵
随神門の左手前にある土俵は、奉納相撲が盛んな隠岐の中でも格式が高いとされ、江戸時代の文献にも20年に一度の遷宮で奉納相撲が開催されたと記述されている。

随神門
随神門は文化8年(1811)の造営になる。その両側には瑞垣が巡らされ、水若酢神社の社殿を守っている。

随神門
続日本後紀』承和9年(842)条に、由良比女命神・宇受加命神・水若酢命神の3社が官社に預かる旨が記されている。延長5年(927)成立の延喜式神名帳では、隠岐国穏地郡に「水若酢命神社明神大」と記載されている。享禄3年(1530)の資料に一宮の初見として、隠岐国一宮の位置付けにあったとされる。

拝殿
本殿手前に建てられている拝殿は、大正元年1912)の造営。

拝殿
拝殿に掲げられる「隠岐州第壹宮」銘の扁額は、明和9年(1772)に幕府巡検使として当地に至った佐久間東川の書による。

昔の本殿の鬼板
拝殿横には大きな鬼板が保存されていた。昔の本殿の千木の前に飾る鬼板という。

拝殿と本殿
水若酢神社の主祭神は水若酢命で、配祀神は中言命(なかごとのみこと)と鈴御前。水若酢命神は記紀に見えない地方神で、配祀神とともに由緒は不明である。言い伝えでは、隠岐国の国土開発と日本海鎮護の任務に就かれた神とされる。『隠州記』(貞享5年(1688))の伝承では、崇神天皇の時に神が海中から伊後の地に上がり、白鳩2羽に乗って遷座したとする。隠岐島の伝承では、白鷺によって神が伊後から棒羽山などを経て山田村、一宮村宮原と移り、さらに江戸時代の洪水の際に現社地の郡村犬町に遷座したとする。

隠岐造」の本殿
本殿は江戸時代の寛政7年(1795)の造営で、高さは約16m。身舎(もや)は切妻造妻入で、桁行2間、梁間3間の大規模な建築。屋根は茅葺で、棟には千木・鰹木を置き、身舎前面には片流れ・栃葺の庇を付す。身舎内部は前1間を外陣、後1間を内陣とし、ともに畳敷で、内陣奥に神体を納める厨子が安置されている。この本殿は「隠岐造」と称される独特な神社建築様式で、その造営に係る棟札・普請文書もよく保存されていて、本殿及び棟札・普請文書は国の重要文化財に指定されている。

本殿の妻飾り
水若酢神社本殿と同様の隠岐造の建物は、玉若酢神社本殿、伊勢命神社本殿、などでも知られ、1間四方の小規模な隠岐造の社殿は隠岐諸島の各地に伝わる。妻飾りの大瓶束と二重虹梁の周りの意匠が極めて立体的に構成されていて興味深い。虹梁の下部には鯉の彫刻が認められる。建築当初はさぞや鮮やかに彩られていたであろうと推測するのが楽しい。例大祭として、隔年に催される祭礼風流が知られる。「蓬莱山」と呼ばれる山車を御旅所まで曳く「山曳き神事」や、御旅所で巫女舞・一番立・獅子舞・大楽・流鏑馬といった各種神事が催される。「山曳き神事」は、社殿流出に伴う再建時の用材曳きに由来するといわれる。この祭礼風流は、「隠岐三大祭」の一つに数えられるほか、島根県指定無形民俗文化財に指定されている。

水若酢神社古墳群
水若酢神社の社殿右手には、水若酢神社古墳群と呼ばれる2基の古墳がある。この1号墳には、6世紀中頃〜7世紀頃(古墳時代後期)の土器をはじめ、太刀や鍬などの鉄製品、勾玉などの装飾品が埋葬されており、造営もその頃とされる。現在露出している横穴式石室は、長さ11mと隠岐地域では最大で、玄室内には遺体を収めたと思われる石棺が2基見つかっている。本殿裏手にある2号墳ともども墳丘の全長は20mと推定されている。

私塾膺懲館跡
参道脇に私塾膺懲館跡の石碑が立っていた。膺懲館は、幕末の頃、京都で学舎を開いていた中村出身の儒者・中沼了三から崎門学の教えを受け、尊王攘夷に燃えて帰国した中西穀男(山田、前田屋)が養父・中西淡斉を講師として協力を得て、島の若者らに隠岐国を外夷から護るための文武の道を教授した私塾である。若者らはその情熱を慶応4年(明治元年)の隠岐騒動に傾注した。そしてその建物は、明治維新から郡学校として使われ、明治30年頃まで存在していたという。
 
 
 

裏磐梯、中瀬沼・レンゲ沼探勝路

裏磐梯、曽原湖
雄国沼の散策の後は裏磐梯高原で泊まり、翌日はいくつかの湖沼を散策して回った。裏磐梯で最大の桧原湖の東に、曽原湖がある。一応曽原湖畔探勝路が設けられているのだが、湖畔は別荘地として販売されているためかほとんど沼に沿って歩くことはできないので、歩くのはやめた。

曲沢沼
曽原湖のさらに東側に大沢沼と曲沢沼がある。磐梯山の噴火でできた典型的な沼で、最近ではカメラマンの穴場的な撮影スポットとして人気がある。特に秋は沼に映り込む紅葉が万華鏡のように美しい。手前の大沢沼は木立に邪魔されて見づらいが、森に包まれている分、水鏡に巡り合う確率が高いという。こちらの曲沢沼の方が有名だが、どちらも駐車スペースがないのが玉に瑕。10月下旬が見頃というのでいつかまた来たい。

ヤグルマソウ
桧原湖の東、曽原湖の南に中瀬沼探勝路がある。中瀬沼展望台を通り、レンゲ沼や姫沼を回ることができる。展望台に向かって歩き始めてすぐに、大きな葉と賑やかな円錐花序が目立つヤグルマソウの群落に出会った。ヤグルマソウRodgersia podophylla)は、北海道西南部と本州の湿り気のある深山に生育する多年草で、花弁はなく、花弁に見える萼裂片ははじめ緑白色でのちに白色に変わる。和名の由来は、小葉の構成が端午の節句の鯉のぼりに添える「矢車」に似ることによる。日本各地の方言が多くある。イツツバ(木曽)、エクへー(安芸)、コノテ(秋田)、ゴハ(秩父、北佐久、美濃)、サルカサ(秋田、長野)など。

ケナシヤブデマリ
こちらの白い装飾花が目立つ花は、よく見かけるムシカリ(オオカメノキ)ではなく、ヤブデマリの地域変種、ケナシヤブデマリ(Viburnum plicatum var. glabrum)という落葉小高木である。ムシカリ(オオカメノキ)の装飾花が5枚はっきり認められるのに対し、ケナシヤブデマリでは5枚のうち1枚が極めて小さく4枚に見える。ヤブデマリは関東以西の本州、四国、九州に生育するが、ケナシヤブデマリは北陸から東北地方の日本海側に生育する。葉脈の幅がムシカリの葉よりケナシヤブデマリの葉の方が並行である。

サイハイラン
こちらの花は、一見するとショウジョウバカマに似ているが、サイハイラン(Cremastra appendiculata)というラン科の多年草である。日本各地の山地の木陰に生育するが、初めて見つけた。花期は5〜6月。長さ1535cmになる大きな葉を普通1枚つける。40cmほどの花茎に淡紫褐色の花を1020個密につけ、片方に偏り下向きに咲く。和名の采配蘭は、昔戦場で指揮をとるのに使った采配に見立ててつけられた。

ノアザミ
こちらのアザミは、ノアザミCircium japonicum)という多年草。本州以南の山野に最も普通に見られる、日本固有種。頭花は紅紫色、枝の先端に直立してつく。春先に咲くアザミはオニアザミノアザミがほとんどなのでわかりやすい。若い茎は山菜として食用になり、天ぷらや油炒め、煮物に調理される。根の乾燥品は大薊と呼ばれる生薬となる。

中瀬沼展望台
15分ほど歩くと中瀬沼展望台に着く。明治21年(1888)7月に起こった水蒸気爆発により、磐梯山1816m)のすぐ北側にあった小磐梯(約1750m)が大規模な山体崩壊・岩なだれを起こし、477名の命が奪われた。明治以降最大の火山災害である。この噴火によって磐梯山の北側では、岩なだれが川を堰き止め、桧原湖などの湖をつくった。流れ山の窪地には水が溜まり、五色沼湖沼群や中瀬沼などの変化に富んだ湖沼が生まれた。複雑に入り組んだ中瀬沼は、数百年で緑深い森を形成した。この展望台も流れ山の一つである。

ホタルカズラ
探勝路はレンゲ沼に向かって少しずつ下っていく。この青紫色の花は、ホタルカズラBuglossoides zollingeri)というムラサキ科イヌムラサキ属の多年草。日本全土の山野に生え、花期は4〜5月。和名は蛍蔓の意味で、花色を蛍の光にたとえたもの。別名に、ホタルソウ、ホタルカラクサ、ルリソウなどがある。

小沼
レンゲ沼の手前に、小さな小沼があった。ジュンサイだろうかヒシだろうか、沼一面に浮葉植物が繁茂している。

マルバノイチヤクソウ
森の下草の間に見慣れない花が咲いていた。マルバノイチヤクソウ(Pyrola nephrophylla)という常緑の多年草。日本各地の山地帯〜亜高山帯の林床や林縁に生える。花茎はやや赤みを帯び、先に5〜10個の花を下向きにつける。花冠はやや赤みを帯びた白色。

サワオグルマ
こちらの沼地に咲いていた黄色い花は、キオン属のサワオグルマ(Senecio pierotii)という多年草。本州以南の湿り気のある湿原などに生育し、花は舌状花と筒状花で構成されるキク科の特徴を持つ。花期は4〜6月。花は数個から30個程度つける。

レンゲ沼
いよいよレンゲ沼に着いた。ここには裏磐梯サイトステーションがあり、ここで色々と情報を得てからトレッキングするのがよい。

レンゲ沼
レンゲ沼だけ一周だと20分ほどで回れる。浮いている草は、ジュンサイヒツジグサである。

アヤメ
次に姫沼に向かう。美しい姿をひけらかすように咲く花は、アヤメ(Iris sanguinea)という多年草である。北海道から九州までの山野に自生し、ノハナショウブカキツバタのように湿地に生えることは稀で、主に比較的乾燥している草地を好む。花形は主に三英花(外側の大きな花弁が3枚)で、花弁の付け根には黄色と紫色の虎斑模様がある。この網目模様が文目(あやめ)の名の由来という。カキツバタハナショウブにはこの網目模様はない。ヒオウギアヤメには網目模様があるが、アヤメの内花被片が大きく立ち上がるのに対し、ヒオウギアヤメでは小さく目立たない。

姫沼
最後に姫沼に着く。この沼も深い緑に包まれているが、姫沼というほど小さくは感じられない。その後、中瀬沼展望台へと続く道に合流するので、右の展望台へは行かずに、左に折れて出発点に戻る。5月初旬には少しだがミズバショウが見られる。50分ほどで一周できた中瀬沼探勝路だが、植物の種類も多く、変化に富んだ格好な散歩道であった。
 
 

雄国沼遊歩道

タテヤマリンドウ

雄国沼にはニッコウキスゲレンゲツツジの他にも多くの花が咲いている。ワタスゲタテヤマリンドウ6月初旬が見頃のようだが、まだあちこちで咲いている。タテヤマリンドウGentiana thunbergia var. minor)は、ハルリンドウの高山型変種で、本州中部以北と北海道の高山の湿地に生える二年草。花は陽が当たっている時だけ開き、曇天・雨天時は閉じる。花茎の先に一つ小さな淡青紫色の花をつける。

ホロムイイチゴ

木道の近くで珍しいイチゴを見つけた。普通のイチゴは3小葉だが、このイチゴの葉は掌状である。キイチゴ属のホロムイイチゴ(Rubus chamaemorus)という多年草。本州北部と北海道、千島やサハリンなどに分布する。ホロムイとは、北海道の「幌向」という地名に由来する。尾瀬には自生せず、雄国沼が南限という。葉は掌状に5〜7裂し、分枝のない茎に互生する。花は茎の先端に単独で生じ、花後、赤い果実が実る。北ヨーロッパでは果実を生食するほか、ジャム、ジュースなどに加工する。

ヒオドシチョウ

木道に美しいヒオドシチョウ(Nymphalis xanthomelas)が止まった。日本各地の山地や平地に生息し、主にエノキを食樹とする。花にはほとんど集まらず、樹液や腐果を好む。和名は、戦国時代の武具「緋縅」からつけられた。翅面はオレンジ色を基調に華麗だが、翅裏は地味で目立たない。他にもアサギマダラやヒョウモンチョウが飛んでいたが、蝶の種類はそれほど多くはなかった。

ニッコウキスゲ

ニッコウキスゲHemerocallis middendorffii var. esculenta)は、変種名esculentaが「食用の」という意味で、同属のヤブカンゾウなどとともに食用とされた。新芽を食べると、ヤブカンゾウより甘いという。尾瀬の大江湿原、日光霧降高原など多くの群生地が知られるが、東北地方北部や北海道では海岸沿いの平地に普通に生えている。地方により変異があり、北海道のものはエゾゼンテイカという。

コバイケイソウ

少しだけだが、コバイケイソウVeratrum stamineum)が花を咲かせていた。本州中部以北と北海道の高山や深山の湿地に生える大型の多年草で、高さは1mにもなる。花茎の先端部は両性花である。有毒であり、全草にアルカロイド系の毒成分を持ち、誤食すると嘔吐や痙攣を起こし、重篤な場合死に至る。若芽は山菜のオオバギボウシノカンゾウの葉に似て、誤食による食中毒が毎年発生している。

ナナカマド

こんな湿原にもナナカマド(Sorbus commixta)の花が咲いていた。普通はかなりの高木になるが、高山では低木にもなる。

ヒオウギアヤメ

こちらの菖蒲は、ヒオウギアヤメIris setosa)という多年草。本州中部地方以北と北海道の高層湿原等に生える。和名は、葉の出方が檜扇に似ることに由来する。花は一日花で、朝開いて夕方には萎む。

アマドコロ

雄国沼の遊歩道は木道を敷いた湿原から離れて、休憩舎に向かって林の中を北に進む。途中、道端でアマドコロの花が咲いているのを見つけた。アマドコロ(Polygonatum odoratum var. pluriflorum)は、日本全国の山野に生える多年草で、和名は、地下茎がヤマノイモ科のトコロに似て、甘みがあることによる。春の若芽や地下茎には甘みがあり、山菜として食用にされる。漢方では滋養強壮剤として、かつては民間薬で利用された。似た姿の植物にナルコユリやユキザサ、ホウチャクソウがあるが、ホウチャクソウは有毒なので注意が必要である。

ササバギンランとツクバネソウ

ユキザサに似たこの花は、キンラン属のササバギンランCephalanthera longibracteata)という多年草。日本全国の山地の樹林下に自生する。茎は直立し約40cmになり、花序より葉が高くなる。葉が細長く笹の葉に似る。花は上を向くが、あまり開かない。左後ろの草は、エンレイソウに似るが、葉の枚数が3枚ではなく、よく見ると4枚なのでツクバネソウ(Paris tetraphylla)であることがわかる。日本全国の深山の林内に生える多年草。元々目立たない緑色の花を咲かすのだが、これは花後の姿である。

サラサドウダン

こちらの花は、サラサドウダン(Enkianthus campanulatus)という落葉低木。日本固有種で、北海道西南部、本州全域、四国の徳島県に分布し、深山の岩地に生育する。枝先に鐘型の花を総状に多数吊り下げる。和名は、花に紅色の筋が入り、更紗模様に似ていることに由来する。別名、フウリンツツジとも呼ばれる。

ベコ石

休憩舎の前にはベコ石という大きな石があり、その先に雄国沼が僅かに垣間見られたが、休憩舎までの遊歩道で雄国沼を見ることができなかったのは予想外だった。団体で休憩舎を使う場合を除き、ここまで歩くよりは雄国沼の木道をゆっくり回る方がよいと思う。

ウマノアシガタ

こちらの黄色の花は、キンポウゲ属のウマノアシガタRanunculus japonicus)という多年草。日本各地の山野に生え、花弁は5枚で金色のように光沢がある。馬の足形とは、掌状の根生葉を馬の蹄に見立てたもの。有毒植物なので注意が必要である。

コマユミ

こちらの目立たない花を咲かせている木は、ニシキギEuonymus alatus)という落葉低木である。日本各地の山野に普通に生え、秋の紅葉が美しいので庭木としてもよく植えられている。枝にコルク質の翼が発達するのが特徴。葉腋から柄のある集散花序を出し、淡緑色の花を数個開く。花弁は4個、雄蕊は4個、雌蕊は1個、萼は4裂する。ただし、葉や花がそっくりで、枝にコルク質の翼が発達しない品種をコマミユ(f. ciliatodentatus)というので、確認できない以上、コマユミとするしかないだろう。

オニアザミ

こちらのアザミは、オニアザミCirsium nipponense)という多年草。北陸から東北にかけての日本海側の山地の草原に自生する日本固有種。茎の高さは1mになる。葉は深く裂け、縁にある棘は鋭い。頭花は下向きにつき、花の色は紫色である。

 

雄国沼

雄国沼と猫魔ヶ岳

10日ほど前に福島県北塩原村裏磐梯)にある雄国沼湿原を訪れた。雄国沼は正面の猫魔ヶ岳(1,404m)や雄国山(1,271m)、古城が峰、厩岳山などを外輪山にもつ、猫魔火山のカルデラにある湖沼である。以前は陥没カルデラに水が溜まったカルデラ湖と考えられていたが、現在では、古猫魔火山が約50万年前に北東方向へ山体崩壊することで爆裂カルデラを生じ、その内部に後の火山活動で猫魔ヶ岳峰の山体が形成され、そこにできた凹地に水が溜まって雄国沼が生まれたと考えられている。ニッコウキスゲの群生地としてよく知られ、最盛期には車の乗り入れが禁止され、喜多方市の雄国萩平駐車場から金沢峠までシャトルバスが運行されている。金沢峠からは猫魔ヶ岳や雄国山などの外輪山及び雄国沼湿原が見渡せる。

金沢峠から見た雄国沼

正面の猫魔ヶ岳は金沢峠から見て東南東に位置し、そこから左に稜線沿いに目を転じると、一番低くなっているところが雄子沢川が流れ出る場所となり、沼の左端辺りに遊歩道の終点となる休憩舎がある。中央に見える沼に突き出た半島に行ってみたいが、歩いていくことはできない。

サワフタギ
金沢峠(1,150m)から雄国沼(1,089m)までは10分ほど山道を下る。まず初めに白い花が見つかった。多数の雄蕊が賑やかで印象的な花である。ハイノキ属のサワフタギ(Symplocos chinensis)という落葉低木。日本全国の山地の沢などの湿り気のある場所に生育する。樹高は2〜4mになり、枝は灰褐色でよく分枝する。若枝の先端に円錐花序をつける。白色の花冠は5深裂し、花冠より長い雄蕊が多数あり、果実は熟すと瑠璃色になる。別名、ルリミノウシゴロシ(瑠璃実の牛殺し)の牛殺しの意味は、牛の鼻輪を作るくらい木が硬く、頭を叩くと牛も死んでしまうから。

オオヤマフスマ
足元にはオオヤマフスマ(Moehringia lateriflora)の白い小花が咲いていた。日本各地の山地や草原に生える多年草。葉は対生し、花弁は5個で長倒卵形。別名はヒメタガソデソウ(姫誰が袖草)。

クルマバソウ

こちらの小さな花は、ヤエムグラ属のクルマバソウ(Galium odorata)という多年草。北海道と本州の林内に自生する。花冠は4裂し卵形となる。葉は6〜10個が車輪のように輪生し、狭長楕円形または倒披針形で先は鋭頭。乾燥させると淡緑色になり、クマリンの芳香がある。欧州ではウッドラフと呼ばれ、ハーブおよび民間薬として利用される。ドイツなどでは、ビール、ジュースあるいはアイスクリームやケーキなどの菓子類の風味付けにも使われる。

タニウツギ
峠から沼までのあちこちに、タニウツギWeigela hortensis)の紅色の花が咲き誇っている。主に日本海側の深山に普通に生え、高さ2〜5mになる。

ニッコウキスゲレンゲツツジ

山道を降り切ると湿地帯の平原が広がるが、沼にはまだ辿り着かない。右手(南東)に進むと金沢峠から続く外輪山の麓には、ニッコウキスゲレンゲツツジの群生が広がり、オレンジと黄色の競演が素晴らしい。これは10日前の様子だが、昨日のニュースでは全面黄色く彩られていた。

ニッコウキスゲレンゲツツジ
近くで見ると、レンゲツツジが一株に数十個の花を咲かせるのに対し、ニッコウキスゲは一株に数個の蕾をつけても、花が開くのは一つずつである。まだニッコウキスゲは蕾が多いようだ。

雄国山と雄国沼
雄国沼は標高1,089m、周囲約3.5km。東南東には猫魔ヶ岳(1,404m)が見える。左(北)を眺めると、雄国山(1,271m)への山並みが認められる。

雄国沼の木道

ニッコウキスゲの面積あたりの生息株数は、なんと尾瀬を上回り、日本一といわれる「雄国沼湿原」。特にニッコウキスゲが咲き誇る6月下旬から7月初旬には、湿原一面が真っ黄色の絨毯を敷き詰めたように広がるという。まさに「天空の花園」になるのだが、まだ少し早かったようだ。

ニッコウキスゲ

ニッコウキスゲ(Hemerocallis middendorffii var. esculenta)は、別名、ゼンテイカ(禅庭花)とも呼ばれる、キスゲ亜種の多年草。本州中部地方以北や北海道の高原、海岸近くの草原に自生する。花弁は6枚に見えるが、うち3枚は萼が変化したもので実際は3枚花弁である。朝開花すると夕方には萎む一日花であるが、関東の低地型のムサシノキスゲは翌日まで開花する。

レンゲツツジ

レンゲツツジ(Rhododendron japonicum)は、日本固有種で、北海道南部から九州にかけて主に高原に自生している。全木に痙攣毒を含む有毒植物で、牛馬も食べない。蜜にも毒があるため、花の蜜も危険で、養蜂業者は自生地での蜂蜜採取を避けたり、開花期を避けたりしている。