半坪ビオトープの日記

根曽古墳群、雞知の住吉神社、梅林寺

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雞知浦に根曽古墳群

対馬東海岸の雞知浦に張り出す岬に国指定の史跡、根曽古墳群がある。この左手前の先にある。

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根曽古墳群

根曽古墳群は、5世紀から6世紀に営まれた古墳群で、三基の前方後円墳と二基の円墳とからなっている。弥生時代から古墳時代にかけて、浅芽湾沿岸の小高い岬には至る所に箱式石棺墓が設けられ、対馬において伝統的な墓制である箱式石棺と本古墳群における高塚古墳(盛土を持つ古墳)との関連が注目される。1号墳は最高所に位置する積石塚の前方後円墳であり、全長30m、前方部長さ12.3m、幅5.5m、高さ1m、後円部は径14.5mで板石石室から鉄鏃・刀・碧玉製管玉が発見されている。

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「昼夜イノシシ注意」の標識

前方後円墳は首長墓(地域を治める豪族の墓)であるが、対馬では本古墳群のほかに、雞知浦を見下ろす丘陵にある出居塚古墳(鶴の山古墳)が知られているに過ぎない。当地区に首長墓が集中分布していることは、雞知浦付近が「日本書紀」にある「対馬県直」一族の本拠地として重要な位置にあったことを物語っている。今は荒れた藪となっていて、「昼夜イノシシ注意」の標識があったので、藪の中に入っていくのはやめた。

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雞知の住吉神社

延喜式に記録された名神大社住吉神社は、住吉(大阪府)、下関、博多、壱岐対馬に鎮座している。対馬住吉神社は古い時代に鴨居瀬から雞知に移祭したと伝わり、鴨居瀬を元宮、雞知を新宮と呼ぶ。移祭の時期は不明で、どちらが延喜式に記載の式内社か、古くから論争があったようだ。こちらは雞知の住吉神社の第一鳥居である。

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第二鳥居の先の石段の上に神門

遣隋使や遣唐使の派遣の際には、まず大阪で安全祈願祭を行い、瀬戸内海を渡ると下関、外海に出て博多、玄界灘を越えて壱岐、そして対馬で最後の祈願祭を行い、遥かな中国へと旅立っていった。住吉三神朝鮮半島へと繋がる大陸航路を守護すべく配置されていた。第二鳥居の先の石段の上に神門が建っている。

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住吉神社の拝殿

イザナギの禊により出現した海神・ツツノオ三神は、神功皇后に神託を下した神として皇室において重要視され、航海の守護神として篤く崇敬されていた。総本社は住吉にあり、住吉三神とも呼ばれる。現在、社殿は内陸にあるが、傍らを流れる雞知川は対馬海峡東水道に面する高浜に注ぎ、北は浅芽湾に繋がる海上交通の拠点だった。住吉神社は本来、ツツノオ三神を祀るはずだが、彥波瀲武鵜茅草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)を主祭神として祀り、豊玉姫命玉依姫命も配祀されている。これらは和多都美系の祭神である。

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摂社の和多都美神社

社殿の脇に摂社の和多都美神社がある。神功皇后新羅から帰還の折に雞知の行宮に入り、和多都美神社を造営したが、当社はその神社であり、白江山の住吉神社が合祭されたと、阿比留家に伝わる中世文書にあるという。弘仁年間(810-824対馬に来寇した刀伊賊を討つため、上総国畔蒜郡に配流されていた比伊別当国津の子らが勅命を受けて来島、その軍功で掾官隣、対馬にとどまって阿比留氏と称した。遠祖を蘇我満智とする。

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住吉神社の本殿

この地は東南に高浜、北西に樽ヶ浜と両面に船着場を持っている。樽ヶ浜の入江の周辺には弥生時代の遺跡や古墳が多い。また高浜にも弥生時代の石棺群や銅矛が出ている、根曽古墳群がある。貞享3年(1686)の「神社誌」によれば、住吉大明神・松熊大明神・鉾之神・山形・乙宮が鎮座していたようだ。天明期(1781-)にはさらに宗像・日照・寄神の鎮座が報告されている。

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社殿右手奥の石祠

社殿の右手奥に石祠がある。中には石と貝殻が祀られている。詳細は不明。

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梅林寺

対馬で最後に訪れたのが、小船越にある梅林寺である。李氏朝鮮が「倭寇の巣窟」とされた対馬を襲撃した応永の外寇1419)では宗家のゲリラ戦に苦戦し、貿易の権限を対馬の有力者に与える懐柔策を取った。宗家七代・宗貞茂、八代貞盛、九代成職が峰町佐賀に府を置いた60年間は「佐賀三代」と呼ばれ、宗家が朝鮮との外寇・貿易関係を確立した時代だった。小船越は早田氏の拠点の一つで、「応永の外寇」では尾崎に続いて朝鮮水軍の襲撃を受けた。外寇後、通行条約が結ばれ、朝鮮への渡航者は全て宗氏の文引(証明書)が必要となり、ここ梅林寺の僧・鉄観が文書の取り扱いにあたったといわれる。1672年に大船越の堀切水路完成によって航路が変更されるまでの240年間、朝鮮貿易の流星期とも重なり、小船越は大いに賑わった。

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梅林寺

由緒によると、538年に仏像と経巻を献上した百済聖明王から欽明天皇への使節が近くの浦に滞在した際、仮堂をもうけてそれらを安置した。その後、仮堂のあった場所に一寺を建てたのが起源で、寺号不明ながら日本最古の寺ともいわれる。嘉吉年間(15世紀中葉)には梅林寺と呼ばれていた。

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歴代住職の墓碑

文化財として、統一新羅時代末期・9世紀の銅製誕生仏(高さ10.6cm)。南北朝時代大般若経579帖。山門を入ってすぐ右手に25基の歴代住職の墓碑が並んでいる。前列右端の自然石が初代の墓碑で、ただ「開山」と刻まれているだけだった。

これで、神社巡り主体の昨夏の対馬の旅は終わった。舟志乃久頭神社の処でも触れたが、古事記の天地初発の三神、アメノミナカヌシ・タカミムスビ・カムムスビのうち、タカミムスビとカムムスビの子が対馬固有の神・タクズダマであり、古事記の元になる神話の最初にタクズダマが登場していたのではないか、との推測を誘うなど、興味津々の対馬の旅であった。

 

白嶽神社、上見坂公園

 

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洲藻から見る白嶽

翌朝、今度は白嶽の東麓、白嶽神社のある洲藻の集落に行く。白嶽登山口の駐車場の先に白嶽がよく見える。青空に向かって聳える双耳峰の勇壮な姿は、昔から対馬山岳信仰の総社として崇められた歴史を十分に納得させる存在感をもってどっしりと輝いている。白い岩盤そのものが巨大な磐座とされ、遠くから拝むために麓に社が建てられてそこから遥拝するというのが、古神道の原型でもある。

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白嶽

白嶽は登山口から山頂まで1時間半ほどで到着できるというが、山頂付近は険しい岩場があるので十分な装備が必要だろう。山頂付近は、対馬の固有種・シマトウヒレンの唯一の自生地である。白嶽全体が神山として信仰の対象だが、左の雌岳の岩峰の根元にある岩窟は特に神聖視されて居る。

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白嶽神社

白嶽神社は、祭神として大山祗神と多久頭魂神を祀る。神社の由緒によると、神籬磐境(ひもろぎいわさか)の上古制の社にして津島七岳の宗社として森林鬱蒼峻岳秀麗の地なり、古来蛇淵を中の御所と称し、緑原を遥拝所となし、茲に神殿を設けたり。国主の崇敬ありし神社にて、洲藻の総鎮守神なり。大正12年須茂乃久頭神社合併編入せらる、とある。摂社として五王神社、若宮神社が祀られている。拝殿右手前にイチョウの巨木が聳え立つ。

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白嶽神社拝殿

珍しく、賽銭箱は拝殿の中にある。古くは米が神仏に供えられていたが、社寺に金銭が供えられるようになったのは、庶民に貨幣経済と社寺への参詣が浸透し始めた中世以降であり、現在のように賽銭箱が置かれるようになったのは近世以降とされる。

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拝殿の背後に本殿

本殿は拝殿の背後に続いて建っている。社殿の周りは草が生い茂っている。

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ボタンヅル

垣根に這い上がっているつる植物が白い花を咲かせていた。本州、四国、九州に分布するキンポウゲ科センニンソウ属のボタンヅル(Clematis apifolia)という蔓性の半低木。和名は、葉が1回3出複葉でボタンに似て、つる性であることに由来する。センニンソウと同様、有毒植物である。十字形になる4枚の花弁に見えるのは萼片で、花弁はない。

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ヌマガエル

ボタンヅルの根元に小さな蛙がいるのを見つけた。房総半島でよく見かけたヌマガエルに間違いあるまい。対馬には元々、ニホンアマガエル、ツシマアカガエル、チョウセンアカガエルの3種類のカエルが知られていたが、2003年にヌマガエルの対馬での生息が学会発表されて以降、年々増加していることが報告されるようになった。なぜ、対馬に入ってしまったのか謎のままだが、繁殖力が旺盛なので、元々住んでいたカエルたちへの影響が出ないか、とりわけ、国内では対馬にしか生息していなかったツシマアカガエル、チョウセンアカガエルへの影響が心配されて調査が進められている。

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上見坂公園から眺める白嶽

白嶽神社のある洲藻の集落から雞知に戻り、そこから南下して上見坂(かみざか)公園に向かった。標高358mのこの丘陵からは、東に対馬海峡、北西に霊峰白嶽(515m)を望む。

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上見坂公園から眺める白嶽

先ほどは東麓から白嶽を眺めたが、今度は南東方向にある上見坂公園から眺めるので白嶽山頂の様子が少し違い、双耳鋒の巨大な岩肌がはっきり認められる。

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城山、浅芽湾

北を眺めると、白嶽から金田城跡のある城山、そして浅芽湾が東にくびれながら食い込んでいく様が見て取れる。この地は「在庁落し」の名称も伝わる。寛元4年(1246)、時の対馬統治者阿比留氏を筑前より入唐した惟宗重尚の軍勢が、当地で激戦の上で討ち、宗氏が対馬島主の座に就いたとの歴史が永く語られてきたが、これは史実ではないことが研究により判明している。

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上見坂公園から対馬空港

浅芽湾が終わると、対馬空港の滑走路が一筋認められ、その右に対馬開渠東水道の海が認められる。明治35年(1902)、緊迫する東アジアの国際情勢に対処するため、上見坂砲塁が築かれた。その堅固で壮大な遺構は、この展望台の背後に現存し、当時の国家の危機意識の強さが窺われる。

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浅芽湾のリアス式海岸

日本の代表的な溺れ谷、入江と島々が作り出す浅芽湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がり、対馬の地形を再確認できる。好天に恵まれると、遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望である。



 





 

 

 


 

太祝詞神社、金田城跡

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加志から見る白嶽

対馬下島の北部、美津島町厳原町との境に屹立する白嶽(519m)は、古来より霊山として崇められた対馬のシンボル的存在で、大陸系植物と日本系植物が混生する国内最大の独自の生態系をもつ洲藻白嶽原生林として、国の天然記念物に指定されている。洲藻は白岳の東山麓にある集落で、白嶽登山口や白嶽神社があるが、北山麓にある加志の集落を過ぎて太祝詞神社へ向かう道からも白嶽の秀麗な山容が望める。

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太祝詞神社の鳥居

人家もない原生林の中を進むと右手にひっそりと佇む太祝詞神社の境内が現れる。参道には石造、木造の鳥居がいくつも立ち並んでいる。

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太祝詞神社の社殿

原生林の中だから鹿が出没するせいか、参道を除いた境内は柵で囲まれている。社殿は意外と大きく、拝殿は最近全面的に改装した様子である。祭神として太祝詞神(天児屋命)及びイカツオミ(雷大臣)を祀る。豆酘の雷神社のところでも述べたように、神功皇后の外征を支えたイカツオミ(雷大臣)は皇后の凱旋後に対馬に留まり、古代の占いの技術である亀卜を伝えたとされ、津島直の祖神とされる。イカツオミはまず豆酘に住み、次に阿連に移り、加志で生涯を終え、加志の太祝詞神社の境内に墳墓(中世の宝篋印塔)がある。

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太祝詞神社の拝殿

律令時代(7世紀後半)には、国家の吉兆を占う手法として亀卜が採用され、伊豆五人、壱岐五人、対馬十人の三国卜部が占いの職能集団として朝廷に仕え、重視された。豆酘には最近まで亀卜が残り、国の無形文化財に指定されている。阿連にはイカツオミの痕跡が色濃く残されている。阿連・加志の宮司はその子孫とされる橘氏で、対馬卜部の本流といわれている。

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流造の本殿

拝殿の後方には流造の本殿がある。加志の太祝詞神社式内社名神大社であり、延喜式京中、大詔戸命神の本社にあたり、両部神道の時代には加志大明神、賀志宮とも称していたが、明治初年に社号を改めた。

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金田城(かなたのき)の山道

金田城(かなたのき)は、浅芽湾南岸、美津島町黒瀬にある古代山城の一つである。天然の地形を利用した山城だが、日露戦争時に要塞化され、山頂近くまで軍道がつけられている。登山口から山頂まで往復90分ほどかかるので、途中で引き返すことにして山道を歩き出す。

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金田城から浅芽湾を見る

660年、百済が唐・新羅の連合軍により滅亡した。百済救援のために送られた倭国軍も663年の白村江の戦いで大敗。倭国は西日本各地に古代山城(朝鮮式山城)を築き、唐・新羅の侵攻に備えた。667年、浅芽湾南岸の城山(じょうやま、276m)に金田城(かなたのき)が築かれ(日本書紀)、東国から招集された防人たちが城山山頂から朝鮮半島を睨み続けたといわれる。当時の対馬は国防の最前線であり、極度の軍事的緊張が漂う国境の島だった。

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東南角の石塁

それから1000年以上の時が流れ、忘れられていた金田城は日露戦争前夜という国際情勢の中、再び要塞として整備され、巨大な砲台が据え付けられた。1300年前に防人が築いた古代山城と、100年前に旧日本陸軍が建設した近代要塞が併存する城山は、国の特別史跡に指定され、今もその数奇な歴史を語り続けている。

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石塁と建物跡

城山は浅芽湾に突き出した石英斑岩の巨大な岩塊であり、金田城は周囲を石壁で固めて外敵の侵入を阻んだ。人為的な城壁と天然の断崖の総延長は2.9kmに及ぶ。城の内部と外部を結ぶ城戸(きど)の遺構が三つあり、水門も当時の姿をとどめている。最も高い石垣は、6.7m(三の城戸)。東側に防人の住居が発見されているほか、城山の鎮守である大吉戸(おおきど)神社が北側にある。ここは東南角の石塁で、左側には建物跡が認められる。眼下の浅芽湾の深い入江は、1300年前に防人が見たのと同じように人跡未到の原生林に囲まれているように見える。

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ウラジロ

城山の森の中で見かけたシダの群生が鮮やかな姿を見せていた。ウラジロウラジロ属のウラジロGleichenia japonica)。本州福島県以南から沖縄にかけて、暖地の林内に生育する常緑の多年草。高さ2mになる大型のシダで、暖地の湿潤な場所では、何年にもわたって成長を繰り返し、何段にもなる。葉が正月飾りに使われ、注連縄、ダイダイの下に垂れ下げられる。ただし、その由来は「裏が白い=共に白毛が生えるまで」とよく解釈されているが、葉柄の先端に左右向き合って葉が出るため夫婦和合の意味との説もあり、実際は不明である。

 

木坂の藻小屋、ヤクマの塔

 

 

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藻小屋

木坂御前浜園地の海側にがっしりした石組の構造物が建っている。浜石を積み上げ屋根を葺いたもので藻小屋という。船の格納にも利用されていたため「船屋」ともいう。

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藻小屋

対馬は全島の89%は山林に覆われ、耕地は3%、宅地は1%で、古代から現代まで食料自給ができない島としての宿命を負っている。そのため昔から痩せた土地の肥料として海藻が使われてきた。西海岸の村々では晩春の頃、船を操って「藻きり」をしたり、海岸に漂着した寄り藻を乾して畑の肥料にするため貯蔵したりしていた。

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藻小屋

昔は西海岸に多く存在したが、現存するのは木坂に復元されたこの8棟のみとなり、当時の生業の風景を伝える貴重な資産として、「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定されている。

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藻小屋と鹿牧場

屋根は復元されているが、側面の石積みは当時のままである。向こうに見える鳶崎の斜面には、野生の鹿・ツシマシカが放牧されている鹿牧場があり、取り囲む金網と支柱が認められる。ちなみにツシマシカは対馬にのみ生息するニホンジカの一種で、2015年前後には4万頭に増殖して農作物被害が多く問題化している。

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ヤクマの塔

対馬海峡に面する御前浜には、ヤクマの塔と呼ばれる円錐状の石積みがある。ヤクマとは、対馬に残る天道信仰の典型例とされる祭りで、旧暦6月初午の日に天道社に参拝し、ヤクマの塔を一基作り、伊豆山の方向を拝み、男児の健やかな成長や五穀豊穣を祈願する。

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ヤクマの塔

ヤクマの祭りは、鳶崎の向こう側の集落・青海と木坂にのみ残る対馬独自の習俗・信仰である。天道信仰とは、対馬独自の天神・日神の信仰で、自然的な天の神信仰がやがて「天道法師」という伝説的人物として具現化されたもの。八幡神を祀っていたのは、母子神信仰が基盤にあるからで、太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰が集合していた。母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、豊玉姫命と鸕鷀草葺不合尊とも解釈された。しかし、母子神信仰の起草には海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していたと考えられる。つまり、元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、さらに明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読み替えられ、式内社に比定する動きが強まった。

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木坂御前浜園地

木坂御前浜園地はキャンプのできる広い芝生広場で、休憩所兼案内所の右手に見える海神神社の社叢は木坂野鳥の森にもなっている。木坂の集落の北側にあって海神神社の鎮座する山を伊豆山と呼ぶが、伊豆はイツク(厳く)の意味で、神が依り憑く神聖な山の意である。神社の南にある木坂の集落は、旧社人が居住していたので穢れを忌む意識が強く、家屋は川の北側にあって、女性は出産に際しては川の南側に移って小屋の中で出産し、産後しばらく忌が開けるまで滞在した。墓は参り墓が川の南岸にあり、埋め墓は南方の山を越えた海岸部にあるという両墓性の形態をとっていた。産穢と死穢を忌む意識が強い。

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ツシマヤマネコ

休憩所兼案内所には、対馬の弥生遺跡分布図や、対馬の動植物の説明などがあり、ツシマヤマネコの写真もあった。

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対馬の弥生遺跡

峰町の歴史民俗資料館や豊玉町郷土館を拝観すると、対馬には弥生遺跡だけでなく多くの考古遺跡・出土遺物があるとわかるが、展示品の撮影が禁止なのが残念である。この案内所にあった対馬の弥生遺跡分布図を見ると、浅芽湾北部の豊玉町の二位浅芽湾や、峰町の三根湾に弥生後期(2〜3世紀)の注目すべき遺跡が集中していることがよくわかる。その頃、「魏志倭人伝」にいう「対馬国」の中心がこの地域にあったものと考えられる。

 

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アナゴ寿司

 昼食は初日にも寄った雞知の「肴やえん」にて、アナゴ寿司を食した。

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レンコダイの唐揚げ

こちらはレンコダイの唐揚げ。連子鯛(レンコダイ)は、長崎県が水揚げ高全国一位の魚である。

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アラカブの味噌汁

こちらのアラカブの味噌汁も美味しい。長崎県ではカサゴのことをアラカブと呼ぶ。

 

 

 

木坂の海神神社

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木坂の海神神社

木坂の集落の東の外れに海神神社の鳥居がある。周辺の木坂山(伊豆山)は県指定天然記念物の原生林で「野鳥の森」となっている。伊豆山の伊豆とはイツ(稜威、厳)の意で、心霊を斎き祀ることを意味する。鳥居脇には「國幣中社海神神社」との社号標があるが、明治4年(1871)に旧社格の國幣中社に列格した。創祀年代は不詳だが、対馬国一之宮として崇敬される大社で、式内名人大社の「和多都美神社」、同「和多都美御子神社」、式内国幣小社の「胡禄神社」、同「胡禄御子神社」の論社である。

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境内社の祭魂社

社伝によれば、神功皇后三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するという。旗は後に現在地の木坂山に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現、厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。明治3年、和多都美神社に改称し、明治4年、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、海神神社に改称した。境内に入ると、左側に境内社の祭魂社がある。

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苔むした石碑

海神神社の南にある木坂の集落は、旧社人が居住していたので、穢れを忌む意識が強く、家屋は川の北側にあって、女性は出産に際しては川の南側に移って小屋の中で出産し、産後しばらく忌が開けるまで滞在したという。墓は参り墓が川の南岸にあり、埋め墓は南方の山をこえた海岸部にあるという両墓制の形態をとっていた。産穢と死穢を忌む意識が強い。境内には、苔むした石碑が建っているが、風雨にすっかり削られて何の石碑かわからない。

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苔むした石碑

こちらの石碑も同様に古く苔むしていて、何も読み取れない。

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石段の参道

海神神社が八幡神を祀っていたのは、母子神信仰が基盤にあるからで、太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰が習合していた。母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、豊玉姫命鵜葺草葺不合命とも解釈された。しかし、母子神信仰の基層には、海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していたのである。元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、さらに明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読み替えられ、式内社に比定する動きが強まった。参道は石段が連なって鬱蒼とした原生林の中を進んでいく。

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磐座のような大岩

参道の途中に大きな岩にしめ縄が巻かれていた。よく見ると磐座を思わせるような大岩である。辺りに人影は全く見かけられない。

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延々と続く長い石段

長い石段が幾つにも折れ曲がって続き、ようやく最後らしい鳥居が見えてきた。

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最後の鳥居

長い石段を上り切ると、最後の鳥居の扁額には海神神社の銘が認められる。しかし「海」の字は見たことがない漢字で、「毎」の下に「水」がある。水は「氵」と同じだから、海となる。宗重望(海神神社宮司を務めた宗義和の孫)の揮毫という。石段はもう一つありそうだ。

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最後の石段と社殿

ようやく社殿が見えてきた。現在の社殿は1921年に建造されている。江戸時代までは八幡神を祀っていた。

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拝殿内部

明治になって主祭神豊玉姫命となり、配祀神として彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜葺草葺不合命が祀られている。道主貴(みちぬしのむち)神とは、宗像三女神のことで、記紀においてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神とも呼ばれる。九州から朝鮮半島、大陸への海上交通の平安を守護する玄界灘の神で、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫の海人族が古代より集団で祀る土着神であったが、4世紀以降、国家神として祀られるようになったとされる。

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境内には摂社・末社が17座ある

境内には摂社・末社17座あるとされ、主に社殿の右側に並んでいる。社殿に一番近く一番左に見える社は、摂社で行先殿・濱殿御子・乳母を祀っている。その右の社では、一宮神・白髭神・御先駈神・飛崎神を祀る。その右の社では、五三神・ 瓊宮(たまみや)神・若宮神を祀る。その右の社では、貴船神・金倉神・新霊神を祀る。一番右の社では、天道神・美女神・在廰神・濱○神・寶満神・今宮神を祀る。

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境内には摂社・末社が17座ある

○の字は見たことがない漢字なのだが、「殿」と読むようだ。濱殿だとすると、厳原と豊玉町仁位にある濱殿神社の祭神、海神である豊玉彦尊であり、豊玉姫命の父神である。寳満神とは玉依姫命のこと。在廰神の在庁とは、国衙行政に従事する地方官僚を在庁官人と呼んだ例から推測すると、海神神社が対馬一之宮という惣社の役目を担ったとすると、領域内のその他大勢の神々を総称して在庁神と呼んだのではないかと思われる。これほど多くの摂社・末社を集めて祀っていることから推測すると、海神神社はやはり、惣社の役目を担ったと思われる。和多都美神社の論社であるが、これだけ規模の大きい神社が、式内社に海神神社という名で現れないのは謎であり、海神信仰が定着している対馬ならではの事情が隠れているのであろう。神社の再編、祭神の変更、由緒書の編纂等、明治初期に行われた神社の統廃合の影響を取り除く困難の大きさを改めて痛感する。

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本殿

社殿の造営は、古くは対馬国から太宰府に納める税が充てられ、不足分は神領の民戸の手で補われていたが、遷座の時は特別に太宰府より御料が進められた。建長4年(1252)に社殿の修理が行われ、嘉暦2年(1327)再建、永和4年(1378)宗澄茂により社殿の造営がされて以来、宗氏によりたびたび修造が行われた。

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拝殿

改めて拝殿を眺めてみると、その瓦屋根の重厚さが際立っている。

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祭魂社

帰りがけに祭魂社を横から見たが、拝殿の奥に離れて本殿が建っているのがわかる。

 

対州馬、國本神社

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対州馬

琴から南下し、小鹿で西に向かって上県町に入り、対馬北部・上島の最高峰・御岳(479m)の麓にある目保呂ダム馬事公園に行く。御岳の裾野の原生林から湧き出る清流が公園内を流れ、施設内にはキャンプ場もあり、夏にはフナと川遊びができる。霊峰・御岳は、南部の白嶽と並び古くから修験道の聖地として知られる山で、ツシマヤマネコの生息地でもあり、かつては巨大なキツツキの仲間「キタタキ」が生息するなど、独自の生物分布を持ち、天然記念物・特定動物生息保護林などに指定されている。その御岳の麓に展開する目保呂ダム馬事公園では、日本在来馬8種の一つ・対州馬を飼育している。

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対州馬

対州馬は他の日本在来馬と同様、体高147cm以下のポニーに分類される小柄な馬だが、険しい山道の多い対馬にあって、かつては農耕馬や木材・農作物・日用品等の運搬に用いる駄馬として活躍し、生活に欠かせない存在であった。体高は、雄の平均が127cm、雌は125cmほどで、日本在来8種の中では中間に位置する。

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対州馬

農業人口の減少に加え、自動車の普及、農機具の機械化などで対州馬の飼育頭数は急激に減少し、1952年には2,408頭、1970年には654頭、1995年には70頭、2005年には25頭になり、在来場としては宮古馬に次いで少なく、絶滅が危ぶまれている。

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対州馬今昔ものがたり

昼に寄った対州そば処・あがたの里に、「対州馬今昔ものがたり」が掲示されていたが、天平11年(739)に対馬から聖武天皇に馬が献上されたとの記録があるという。最盛期の頭数は4,500頭で、明治から大正時代に変わる頃には各家庭で2〜3頭買うのが普通だったという。

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対州馬の引き馬・乗馬

目保呂ダム馬事公園では、希少な対州馬を間近に見ることができ、引き馬・乗馬などの体験もできる。一般には対州馬(たいしゅうば)と呼ばれるが、「たいしゅううま」とか「つしまうま」とも呼ばれることがある。

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國本神社

目保呂ダム馬事公園から国道まで戻り382号線を南下し始めるとすぐ、瀬田の国道沿いに國本神社がある。鬱蒼たる杉木立の正面参道奥に社殿が見える。

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國本神社の社殿

國本神社の創祀年代は不詳。現在の祭神は天之佐手依姫命。天之狭手依比売命(天之佐手依姫命)は、古事記の上巻、伊耶那岐・伊耶那美二神の国生みによって誕生した津島(対馬)の又の名である女神であり、対馬の別名とされる。対馬では数社で天之狭手依比売が祀られている。

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ツシマヤマネコの写真

翌朝、峰町の海神神社へ向かう途中、峰町歴史民俗資料館に立ち寄った。展示資料は豊富だったが、撮影禁止だった。これは入り口で見かけた、ツシマヤマネコの写真である。

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峰町の遺跡一覧図

峰町は、対馬の中心部に位置し、平安時代には三根郷、その後三根郡、近世に再び三根郷、明治後期に三根村、昭和51年に峰町となった。朝鮮の歴史書「海東諸国紀」には「美女郡」とあり、「美女浦、六百五十余戸」「沙加(佐賀)浦、五百余戸」と見え、対馬では有数の大きな集落だったことがわかる。町内一円に先史時代からの遺跡が多く、東海岸縄文時代の佐賀貝塚、西海岸の三根湾一体に密集する弥生時代の遺跡は対馬の考古学上貴重な資料を提供している。

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鳶崎、木坂展望台

その三根湾の北側の海沿いの道を西に進みトンネルを越え、さらに西に進むと大きな岬が正面に見えてくる。鳶崎という岬で、頂上やや左に木坂展望台があり、岬の右手前に木坂御前浜園地がある。その右手に木坂の集落があって、その奥に海神神社がある。木坂の集落に明治18年に開校された木坂小学校も昭和58年には廃校となり、集落の盛衰を象徴している。

 

舟志乃久頭神社、琴の大銀杏

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舟志乃久頭神社

比田勝から上対馬町を南下すると、深い入江の舟志湾の奥に舟志(じゅうし)の集落がある。舟志川沿いには約7kmにわたる紅葉の群生地があり、「舟志のもみじ街道」と呼ばれ対馬一の紅葉を誇っている。その入り口付近の県道沿いに、舟志乃久頭神社が鎮座していた。

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舟志乃久頭神社の一の鳥居

舟志乃久頭神社の由緒は不明。一の鳥居は川に面していて、川から上がってくるような神事でもあるのかと思われる。

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一の鳥居の扁額

舟志乃久頭神社は、かつて亀の甲羅で吉凶を占う亀卜(きぼく)所であった。亀卜とは、海亀の腹甲を薄くはぎ、波波迦の木(ははかの木)を焚き、甲羅に押し付けたときのひびを見て占い、神のお告げを伝える神事である。波波迦の木とはウワミズザクラ(上溝桜、Padus grayana)の古名で、古代の亀卜で溝を彫った板(波波迦)に使われたことに由来する。古事記の天岩屋戸の段に「天児屋命太玉命をよび、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた」とある。多久頭魂神社があった対馬南端の豆酘と同じように極めて古い亀卜の神事が伝わる当所も、かなり古い集落であったことが推測される。一の鳥居の扁額には「久頭乃神社」と彫られている。狭い間隔で四の鳥居まで確認できる。

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三の鳥居、四の鳥居

舟志乃久頭神社は祭神として、神皇産霊神カミムスビ)と多久頭魂神を祀る。神皇産霊神は多久頭魂神の母神である。豆酘の多久頭魂神社の際にも述べたと思うが、対馬固有の多久頭魂神が古事記の天地初発の三神、アメノミナカヌシ・タカミムスビ・カムムスビのうち、タカミムスビとカムムスビの子が対馬固有の神・タクズダマであることに留意したい。対馬タカミムスビを祀る神社は豆酘の高御魂神社だけであり、カムムスビを祀る神社は佐護の神御魂神社と舟志乃久頭神社だけである。さらに対馬固有の神・タクズダマを祀る神社は、佐保の天神神社と佐護の天神多久頭魂神社と富浦の天神多久頭魂神社に加え、豆酘の多久頭魂神社と四社を数える。これをどう捉えるか。素人の勝手読みとしては、対馬での古事記の元になる神話には最初にタクズダマが登場し、古事記編纂の後にタカミムスビ・カムムスビの神が付け加えられたのではないか、と推測される。

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舟志乃久頭神社の拝殿

三浦佑之の「読み解き古事記神話編」(朝日新書)によると、古事記の天地初発の三神のうち名前だけで何の働きもしないアメノミナカヌシは、神話を整える最後の段階で加えられたものであろうという。また、タカミムスビ・カムムスビの神も対ではほとんど現れず、タカミムスビは主にアマテラスの摂政のような存在で、カムムスビはスサノオやオオナムヂなど出雲に関わる神々を手助けする場面に登場する。その働きがまさにムス(生)という霊力に相応しく母神的な性格を持ち、ムスヒという生成に関わる神の属性としてきわめて自然である、という。

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拝殿内部

拝殿内部を見てみると、天皇上皇の写真はあるが、拝殿の内装は最近改装された様子が窺える。

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本殿

本殿の鰹木5本と先端が垂直の外千木を見ると、主祭神男神なので、神皇産霊神は多久頭魂神の母神であるから、多久頭魂神が主祭神と読める。しかし、最近ではこの判断方が正しいか疑問が提出されているが。

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層塔形の石塔

境内には石灯篭がたくさん奉納されているほか、層塔形の石塔もいくつか対で奉納されていた。

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琴の大銀杏

舟志からさらに南下して上対馬町の琴(きん)の集落に入ると、長松寺に大きな銀杏がある。推定樹齢は1500年といわれ、「琴の大銀杏」と呼ばれる。「日本最古のイチョウ」「大陸から日本に伝わった初のイチョウ」との伝承があり、「琴のイチョウ対馬の親木、胴の周りが三十と五尋」と対馬各地の地搗き唄で歌われていた。幹まわり12.5m、樹高40mとして、1961年に長崎県の天然記念物に指定されているが、2004年にカメラマンの高橋弘氏が測定したところでは、樹高23m、幹周り13.3mという。

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琴の大銀杏

記録によると寛政10年(1798)落雷のため樹幹が裂け、火災が起こって幹に空洞ができた。その空洞には近年まで稲荷の祠が祀られていたという。