半坪ビオトープの日記

対州馬、國本神社

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対州馬

琴から南下し、小鹿で西に向かって上県町に入り、対馬北部・上島の最高峰・御岳(479m)の麓にある目保呂ダム馬事公園に行く。御岳の裾野の原生林から湧き出る清流が公園内を流れ、施設内にはキャンプ場もあり、夏にはフナと川遊びができる。霊峰・御岳は、南部の白嶽と並び古くから修験道の聖地として知られる山で、ツシマヤマネコの生息地でもあり、かつては巨大なキツツキの仲間「キタタキ」が生息するなど、独自の生物分布を持ち、天然記念物・特定動物生息保護林などに指定されている。その御岳の麓に展開する目保呂ダム馬事公園では、日本在来馬8種の一つ・対州馬を飼育している。

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対州馬

対州馬は他の日本在来馬と同様、体高147cm以下のポニーに分類される小柄な馬だが、険しい山道の多い対馬にあって、かつては農耕馬や木材・農作物・日用品等の運搬に用いる駄馬として活躍し、生活に欠かせない存在であった。体高は、雄の平均が127cm、雌は125cmほどで、日本在来8種の中では中間に位置する。

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対州馬

農業人口の減少に加え、自動車の普及、農機具の機械化などで対州馬の飼育頭数は急激に減少し、1952年には2,408頭、1970年には654頭、1995年には70頭、2005年には25頭になり、在来場としては宮古馬に次いで少なく、絶滅が危ぶまれている。

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対州馬今昔ものがたり

昼に寄った対州そば処・あがたの里に、「対州馬今昔ものがたり」が掲示されていたが、天平11年(739)に対馬から聖武天皇に馬が献上されたとの記録があるという。最盛期の頭数は4,500頭で、明治から大正時代に変わる頃には各家庭で2〜3頭買うのが普通だったという。

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対州馬の引き馬・乗馬

目保呂ダム馬事公園では、希少な対州馬を間近に見ることができ、引き馬・乗馬などの体験もできる。一般には対州馬(たいしゅうば)と呼ばれるが、「たいしゅううま」とか「つしまうま」とも呼ばれることがある。

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國本神社

目保呂ダム馬事公園から国道まで戻り382号線を南下し始めるとすぐ、瀬田の国道沿いに國本神社がある。鬱蒼たる杉木立の正面参道奥に社殿が見える。

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國本神社の社殿

國本神社の創祀年代は不詳。現在の祭神は天之佐手依姫命。天之狭手依比売命(天之佐手依姫命)は、古事記の上巻、伊耶那岐・伊耶那美二神の国生みによって誕生した津島(対馬)の又の名である女神であり、対馬の別名とされる。対馬では数社で天之狭手依比売が祀られている。

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ツシマヤマネコの写真

翌朝、峰町の海神神社へ向かう途中、峰町歴史民俗資料館に立ち寄った。展示資料は豊富だったが、撮影禁止だった。これは入り口で見かけた、ツシマヤマネコの写真である。

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峰町の遺跡一覧図

峰町は、対馬の中心部に位置し、平安時代には三根郷、その後三根郡、近世に再び三根郷、明治後期に三根村、昭和51年に峰町となった。朝鮮の歴史書「海東諸国紀」には「美女郡」とあり、「美女浦、六百五十余戸」「沙加(佐賀)浦、五百余戸」と見え、対馬では有数の大きな集落だったことがわかる。町内一円に先史時代からの遺跡が多く、東海岸縄文時代の佐賀貝塚、西海岸の三根湾一体に密集する弥生時代の遺跡は対馬の考古学上貴重な資料を提供している。

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鳶崎、木坂展望台

その三根湾の北側の海沿いの道を西に進みトンネルを越え、さらに西に進むと大きな岬が正面に見えてくる。鳶崎という岬で、頂上やや左に木坂展望台があり、岬の右手前に木坂御前浜園地がある。その右手に木坂の集落があって、その奥に海神神社がある。木坂の集落に明治18年に開校された木坂小学校も昭和58年には廃校となり、集落の盛衰を象徴している。