ピラトの家からセビリア大聖堂に向かう道の左手に、サンタ・マリア・デ・ヘスス修道院(Convento Santa Maria de Jesús)があった。ヘスス(Jesús)とは、スペイン語でイエスのことであり、スペイン語圏では一般的な男性名として用いられる。
聖堂内の主祭壇には聖母子像が祀られ、その周りには聖人らしき人物像や天使像が配されている。
この辺りの道はどんどん細くなるばかりで、車1台がやっと通れるほどである。
とうとう車も通れなくなった細道を、案内に従って大聖堂に向かう。
ようやく並木道に出ると、正面に大聖堂のヒラルダの塔(Giralda)が高くそびえていた。
セビリアの大聖堂=カテドラル(Catedral y Giralda)は、奥行き116m、幅76m、高さ37mと、スペイン最大、ヨーロッパの聖堂としてもローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇る。高さ97mのヒラルダの塔は、12世紀末にモスクのミナレットとして建設され、16世紀にプラテレスコ様式の鐘楼が付け加えられた。先端のブロンズ像は高さ4m、重さ1288kgあり、風を受けると回転する。ヒラルダ(風見)と呼ばれる所以だ。高さ70mの展望台まで登るとセビリアの町を一望できる。
大聖堂の向かいの南には、インディアス古文書館(Archivo de Indias)が建っている。建築家ファン・デ・エレーラにより、1572年に商品取引所として造られたルネッサンス様式の建物。1784年には新大陸に関する文書をまとめる古文書館となり、新大陸発見や征服当時の資料が保存されている。慶長遣欧使節団に関する文書として、徳川家康からレルマ侯爵へ宛てた手紙などもある。2階の展示室では、コロンブス、マゼラン、メキシコ征服者エルナン・コルテスの自筆文書などを見ることができる。
ピラトの家(Casa de Pilatos)は俗称であり、本来の名前はPalacio de San Andres de Sevilla(セビリアのサン・アンドレスの宮殿)という。現在はメディナセリ侯爵家所有の私邸となっている。
入口は左手にあり、馬車にて入れるようになっているアンダルシアの宮殿の様式である。
15世紀の終わりにアンダルシア総督ペドロ・エンリケスにより着工され、16世紀の始めに息子の初代タリファ侯爵の時に完成した。1483年、タリファ侯爵がエルサレムに巡礼を行った。セビリアに帰国後、その家と郊外にあるCruz del Campoというお堂の距離が、ピラト提督がキリストへの死刑の宣告をした場所からゴルゴダの丘までと同じことに気づいた。その偶然に感動した侯爵はVia Crusis(十字架の道)を作った。Cruz del Campoへの巡礼は1521年より1873年まで続き、現在のセビリアにおけるセマナ・サンタ(聖週間)の始まりとされる。セビリア人達はピラト提督に因んで、この家をピラトの家と呼ぶようになったという。
こちらはARROZ CON MARISCO(海鮮パエリア)。パエリアの起源は、スペインに稲作をもたらしたアラブ人に由来する。9世紀以降、アル=アンダルスのムスリムの間で作られてきた。「パエリア」という名称は本来、バレンシア語でフライパンを意味する。バレンシア地方にこの調理器具を用いた料理法が伝わるうちに料理の名称としてスペイン人全体や他国民に広まったという。パエジェーラと呼ばれる大きなパエリア鍋で炊き上げた海鮮パエリアを、店員がテーブル脇で取り分けてくれた。フォアグラをはじめ、どの料理も美味しかった。とりわけスペインを代表する人気料理のパエリアが気に入り、この後、鍋を買いたくなって金物屋を見つけると物色したが、荷物になるので最終的には諦めた。
ローマ橋からメスキータを振り返ると、手前にトリウンフォ広場があり、大きなプエンテ門(Puerta del puente=橋の扉)が視界を遮っている。Puenteとはスペイン語で橋を意味する。堂々たる門は、かつて街を囲んでいたアラブの城壁の一部だった。1571年にルネサンス様式で再建されたが、未完成で工事が中止された。その後、1928年に記念門として再建された。左手奥に聖ラファエロ勝利記念碑が認められる。
いよいよコルドバ最大の歴史的建造物・メスキータ大聖堂にやってきた。メスキータ(mezquita)とは、スペイン語でモスクという意味で、アラビア語の“Masjid”に由来するが、一般的には固有名詞として、コルドバにあるカトリック教会司教座聖堂・コルドバの聖マリア大聖堂(Catedral de Santa María de Córdoba)を指す場合が多い。スペインに現存する唯一の大モスク(ムスリムの礼拝堂)である。