半坪ビオトープの日記

セビリア大聖堂(カテドラル)へ

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サンタ・マリア・デ・ヘスス修道院

ピラトの家からセビリア大聖堂に向かう道の左手に、サンタ・マリア・デ・ヘスス修道院Convento Santa Maria de Jesús)があった。ヘスス(Jesús)とは、スペイン語でイエスのことであり、スペイン語圏では一般的な男性名として用いられる。

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修道院内主祭壇

聖堂内の主祭壇には聖母子像が祀られ、その周りには聖人らしき人物像や天使像が配されている。

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細い道

この辺りの道はどんどん細くなるばかりで、車1台がやっと通れるほどである。

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細道

とうとう車も通れなくなった細道を、案内に従って大聖堂に向かう。

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ヒラルダの塔

ようやく並木道に出ると、正面に大聖堂のヒラルダの塔(Giralda)が高くそびえていた。

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セビリアの大聖堂=カテドラル

セビリアの大聖堂=カテドラル(Catedral y Giralda)は、奥行き116m、幅76m、高さ37mと、スペイン最大、ヨーロッパの聖堂としてもローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇る。高さ97mのヒラルダの塔は、12世紀末にモスクのミナレットとして建設され、16世紀にプラテレスコ様式の鐘楼が付け加えられた。先端のブロンズ像は高さ4m、重さ1288kgあり、風を受けると回転する。ヒラルダ(風見)と呼ばれる所以だ。高さ70mの展望台まで登るとセビリアの町を一望できる。

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インディアス古文書館

大聖堂の向かいの南には、インディアス古文書館Archivo de Indias)が建っている。建築家ファン・デ・エレーラにより、1572年に商品取引所として造られたルネッサンス様式の建物。1784年には新大陸に関する文書をまとめる古文書館となり、新大陸発見や征服当時の資料が保存されている。慶長遣欧使節団に関する文書として、徳川家康からレルマ侯爵へ宛てた手紙などもある。2階の展示室では、コロンブス、マゼラン、メキシコ征服者エルナン・コルテスの自筆文書などを見ることができる。

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王宮・アルカサル

大聖堂の南東には、広場を挟んでイスラム風のスペイン王宮・アルカサルが見える。14世紀、カスティーリャ王ペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿の跡地に、ムデハル様式で建設され始めた。

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アルカサル

ペドロ1世宮殿、ゴシック宮殿、庭園などが見どころといわれるが、残念ながら大聖堂と同じく長蛇の列の観光客が並んでいて、見学時間に間に合わなかった。1987年にはセビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館は、まとめてユネスコ世界遺産に登録されている。

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中央郵便局

大聖堂の南西、インディアス古文書館の西隣には、中央郵便局が建っている。外壁に設けられた郵便物の投函口は、「セビリア」「マドリード」「地方」「外国」と宛先が別れている。

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セビリア大聖堂

セビリア大聖堂は、1401年に開かれた教会参事会で、「後世の人々が我々を正気の沙汰ではないと思うほど巨大な聖堂を建てよう」と決定され、レコンキスタで破壊したモスクの跡地に建設が開始された。そして、約1世紀後の1519年に大聖堂は完成した。その幅広い特異な形はモスクの名残だという。

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大聖堂入口

1時間ほど並んで、南のファサードのある大聖堂の中にようやく入る。事前予約しておけば並ばずに入場できる。

セビリア、ピラトの家

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サン・エステバン教会

コルドバからセルビアへ朝早く行き、旧市街東部にあるピラトの家に向かってカルモナ通りを進むと、サン・エステバン教会(Hermandad de San Esteban)の鐘楼が見える。

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スルバランの銅像

ピラトの家の向かいのピラト広場には、フランシスコ・デ・スルバランの銅像が立つ。17世紀バロック期にセビリアを中心にアンダルシアで活躍したスペインを代表する画家である。

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ピラトの家

ピラトの家(Casa de Pilatos)は俗称であり、本来の名前はPalacio de San Andres de Sevilla(セビリアのサン・アンドレスの宮殿)という。現在はメディナセリ侯爵家所有の私邸となっている。

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ピラトの家の入口

入口は左手にあり、馬車にて入れるようになっているアンダルシアの宮殿の様式である。

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中央パティオ(中庭)

15世紀の終わりにアンダルシア総督ペドロ・エンリケスにより着工され、16世紀の始めに息子の初代タリファ侯爵の時に完成した。1483年、タリファ侯爵がエルサレムに巡礼を行った。セビリアに帰国後、その家と郊外にあるCruz del Campoというお堂の距離が、ピラト提督がキリストへの死刑の宣告をした場所からゴルゴダの丘までと同じことに気づいた。その偶然に感動した侯爵はVia Crusis(十字架の道)を作った。Cruz del Campoへの巡礼は1521年より1873年まで続き、現在のセビリアにおけるセマナ・サンタ(聖週間)の始まりとされる。セビリア人達はピラト提督に因んで、この家をピラトの家と呼ぶようになったという。

中央パティオ(中庭)にはゴシック様式の噴水がある。

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パティオの周り

そのパティオの周りを、ムデハル、ゴシック、ルネサンス様式が混ざる特色ある建物が取り囲んでいる。イタリアから発掘されたローマ帝王たちの彫刻やギリシアの女神の銅像などが配置され、中世に逆戻りしたような光景が広がる。

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見応えのある部屋

ピラトの家はセビリアではアルカサル(王宮)に次ぐ規模を誇るという。ここで時間を潰してしまって、結果的にアルカサルを見学する時間を失ってしまったが、見応えのある部屋が続く。

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ムデハル様式の礼拝堂

漆喰装飾の壁もあり、様々な幾何学文様が施されたムデハル様式の礼拝堂には祭壇画も掛けられていた。しかし残念ながら、その奇妙な祭壇画の内容はまったく分からなかった。

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天井の幾何学文様

天井の幾何学文様も珍しいデザインで装飾されている。

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様々な装飾タイル

あらゆる壁にそれぞれ違うデザインの装飾タイルが貼られていて豪華そのものであった。

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黄金色の球体

この黄金色の球体は何なのか、説明がよくわからなかった。

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本館の右手の庭園

本館の右手にもバラなどが植えられた庭園がある。

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様々なイスラム文様

装飾タイルをよく見ると、植物文様が主体となっているが、その形の豊富さと組み合わせで、様々な意匠が使い分けられていて、イスラム文様の奥深さを感じ取れる。

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2階への階段

1階は日本語の音声ガイドを貸してくれ自由に写真が撮れる。2階は英語などのガイド付きツアーで見学できるが、撮影禁止である。ゴヤの闘牛の絵などもあり興味深いが時間が足りない。

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古代ローマ時代の棍棒

本館右手の庭園に突き出た一角に四角い部屋があり、古代ローマ時代の棍棒や頭像などが飾られていた。

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古代ローマ時代のレリーフ

その部屋の天井には精緻な装飾が施されている。壁にはいくつか、古代ローマ時代のものと思われるレリーフが展示されている。

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古代ローマ時代のレリーフ

こちらは何のレリーフか分からないが、精巧にできた古代ローマ時代の発掘品と思われる。

コルドバ、ポトロ広場、夕食

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ポトロ広場

ミラフローレス橋から北東へ旧市街の路地を進むとポトロ広場がある。15世紀に仔馬(ポトロ)の像の噴水が設置されたためこの名がある。コルドバ市の紋章がこの仔馬なのであり、市民に愛されている広場である。

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旅籠屋ポトロ

この広場のすぐ西に旅籠屋ポトロ(Posada del Potro)がある。文豪セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』にも登場する旅籠屋で、セルバンテスも宿泊したという。

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ラファエロ勝利記念碑

ポトロ広場の近くにも聖ラファエロ勝利記念碑が建っている。メスキータの尖塔ミナレットの上、メスキータの裏の広場、ローマ橋とここを入れて、すでに4つの記念碑を見た。コルドバの守護神とはいえ、数百年前の記念碑がいまだにいくつも残されていることに驚かされる。

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レストランentre Olivos

コルドバの夕食は、旧ユダヤ人街にある小さなレストランentre Olivos(オリーブの間)にした。

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RACION DE FOIE(フォアグラ1皿)

これは前菜のRACION DE FOIE(フォアグラ1皿)。小さなパンにフォアグラのパテとジャムをのせてカナッペにして食べる。ジャムはイチジク、イチゴ、マロンの3種。

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ALBONDIGAS(ミートボール)

こちらはALBONDIGAS(ミートボール)。ミートボールにはベシャメルソースがかけられ、パセリが振り掛けられている。

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ARROZ CON MARISCO(海鮮パエリア)

こちらはARROZ CON MARISCO(海鮮パエリア)。パエリアの起源は、スペインに稲作をもたらしたアラブ人に由来する。9世紀以降、アル=アンダルスのムスリムの間で作られてきた。「パエリア」という名称は本来、バレンシア語でフライパンを意味する。バレンシア地方にこの調理器具を用いた料理法が伝わるうちに料理の名称としてスペイン人全体や他国民に広まったという。パエジェーラと呼ばれる大きなパエリア鍋で炊き上げた海鮮パエリアを、店員がテーブル脇で取り分けてくれた。フォアグラをはじめ、どの料理も美味しかった。とりわけスペインを代表する人気料理のパエリアが気に入り、この後、鍋を買いたくなって金物屋を見つけると物色したが、荷物になるので最終的には諦めた。

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コルドバ市庁舎

夕食後は、散策がてら旧市街地をのんびり宿に向かう。歩行者専用の広い通りには明るいネオンが輝いている。左に見える建物がコルドバ市庁舎であり、その手前にローマ神殿跡がある。

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ローマ神殿跡

ローマ神殿跡には12本の大理石の列柱が高々と聳え立っている。古代ローマ時代には属州ヒスパニア・バエティカの首都として、皇帝ネロの家庭教師を務めた哲学者セネカをはじめ、多くの学者や詩人を輩出するなど、ローマ文化の中心地として栄えたという。

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商店街のネオン

商店街の中空に飾られたネオンの灯りが美しく輝いている。

コルドバ、ローマ橋

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聖カタリナ門

メスキータ大聖堂の出口は、北の角にある聖カタリナ門であり、エルナン・ルイス2世が16世紀に設計した門である。

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メスキータの東壁

聖カタリナ門を出て、メスキータに沿って南にあるローマ橋に向かう。メスキータの東壁は、アル=マンスールによる3回目の増築時(991-994)にできたもので、高さが10mもある。その壁には内部の二重アーチの円柱やミフラーブなどを象ったビザンチン様式のモザイク装飾が再現されている。

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ラファエロ勝利記念碑

メスキータ内を見学中にも一箇所、南にあるローマ橋を眺める窓があった。右手に見える背の高いモニュメントは、聖ラファエロ勝利記念碑である。この塔は18世紀のフランスの彫刻家ミゲール・ベルディギエルにより建てられたものである。左手にはプエンテ門が見え、その向こうにローマ橋が隠れている。

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ローマ橋

メスキータの裏手には、大きなグアダルキビル川が流れている。Guadalquivirとはアラブ語で「大きな川」を意味する。16のアーチで支えられた全長230mのローマ橋は、紀元前1世紀に造られ、その後、何度か再建されている。現在の構造物のほとんどは、8世紀のムーア人の再建設に遡る。

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プエンテ門

ローマ橋からメスキータを振り返ると、手前にトリウンフォ広場があり、大きなプエンテ門(Puerta del puente=橋の扉)が視界を遮っている。Puenteとはスペイン語で橋を意味する。堂々たる門は、かつて街を囲んでいたアラブの城壁の一部だった。1571年にルネサンス様式で再建されたが、未完成で工事が中止された。その後、1928年に記念門として再建された。左手奥に聖ラファエロ勝利記念碑が認められる。

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ラファエロ勝利記念像

ローマ橋を進んでいくと、橋の途中に聖ラファエロ勝利記念像が立っている。ラファエロ像は市内各地に見られるが、ほとんどが高い記念塔の先に小さく見えるだけなので、これほど間近に見ることができるのは珍しい。聖ラファエロは大天使であり、コルドバがペストに襲われた時、コルドバを救ってくれたコルドバの守護神である。

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ローマ橋からアルカサル

ローマ橋からメスキータより左手を眺めると、木々が生い茂る岸辺の向こうにアルカサルの城壁がようやく認められる。

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カラオーラの塔

ローマ橋を渡りきったところに砦のように建つカラオーラの塔は、コルドバ旧市街の防衛施設として14世紀に建てられ、現在は博物館として使用されている。塔の上からはコルドバ市内を一望できる。

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ミラフローレス橋からローマ橋

ローマ橋からポトロ広場を目指してグアダルキビル川に沿って歩き、上流のミラフローレス橋に着く。橋上から振り返ると、ローマ橋のアーチが夕日に染まる川面に映る姿が眺められた。

メスキータ、中央礼拝堂

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サンタテレサ礼拝堂

ミフラーブの直ぐ左隣に、バロック様式1703年に完成したサンタテレサ礼拝堂があり、大聖堂の聖具室(Sacristía)として使われている。中央にはゴシック様式の聖体顕示台(Custodia Procesional)がある。内部の壁を飾る祭壇画は、コルドバの画家アシスクロ・アントニオ・パロミーノの作といわれる。

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聖体顕示台

豪華な金銀細工で飾られている聖体顕示台は、1510-16年にドイツ人金銀細工師エンリケ・デ・アルフェが制作したもので、今でもキリスト教の祭日には聖体が街を巡る時に使われているという。

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儀式杖

聖具室は左に連なる部屋にも続き、聖具やイエス像、マリア像、天使蔵、金製の十字架などがずらっと展示されている。ガラスケースの中、両端にあるのは大司教聖神降誕祭の時に使う儀式杖である。

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棟飾り

メスキータは、最初のアブド・アッラフマーン1世によるモスク建築(786-788)から、大きく3回増築されているが、アル=マンスールによる最後の3回目の増築(991-994)で左半分(北東部)が追加された。その時、石工たちの作った棟飾りの植物模様も展示されている。

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サグラリオ小教区教会

東の角にサグラリオ小教区教会がある。柵越しに中を覗くと、1583年にチェーザレ・アルバシアにより着手された一連の壁画に圧倒される。中央の祭壇上は「最後の晩餐」である。

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殉教者の壁画

当時のイタリアで主流を占めていた芸術作風が取り入れられ、主に殉教者をテーマに描かれている。

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王室礼拝堂

西と南の壁沿いを見学した後は、中央部の王室礼拝堂と中央礼拝堂を見る。エンリケ2世は1371年、アルフォンソ11世やフェルナンド4世を埋葬するための王室礼拝堂の建設を命じた。スペイン王室の権力とカトリック信仰も反映されている。目をみはるモカラベ装飾の施された交差型アーチのヴォールトを備えた荘厳な王室礼拝堂は、現在見学できず、一部を垣間見ることしかできない。

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中央礼拝堂

メスキータの中央にある中央礼拝堂は、完成までに非常に長い年月がかかり、ゴシック、ルネサンスバロックなど様々な建築様式が混在している。広大な明かり取りの役割を果たす翼廊は、建物全体に光をもたらし、この類まれな建築物全体に光をもたらし、複雑な美しさを添えている。

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パロミーノの絵画

紅大理石が存分に使われた中央祭壇の上部には、バロックの巨匠パロミーノの絵画が飾られている。

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聖歌隊席、パイプオルガン

中央礼拝堂の向かい側には聖歌隊席があり、マホガニー材の椅子には繊細な彫刻が施されている。聖歌隊席の左右にはとても大きなパイプオルガンが設置されている。

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司教座の彫刻「イエスの昇天」

聖堂参事会は1748年、聖歌隊席の彫刻をペドロ・ドゥケ・コルネホに依頼した。聖歌隊席の中央に位置する司教座の彫刻「イエスの昇天」も手がけた。

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最初期のアーチと最後の増築部のアーチ

最初のアブド・アッラフマーン1世によるモスク建築(786-788)から、大きく3回増築され、アル=マンスールによる最後の3回目の増築(991-994)で左半分(北東部)が追加された。手前の最初期のアーチは煉瓦と石の積み重ねで構成されたが、最後の増築部のアーチは塗料で赤と白の縞模様が描かれている。

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円柱の森

3回目の増築部のアーチは紅白の塗料で済まされているが、それでも一千年以上が経過している。明るく広々とした空間が確保されているのでよしとしよう。広大なメスキータの半分以上がキリスト教会用に改築されてしまっているとはいえ、千年以上も前のモスクが残され、並存されてきたことに今更ながら驚く。

コルドバ、メスキータ大聖堂

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メスキータ大聖堂

いよいよコルドバ最大の歴史的建造物・メスキータ大聖堂にやってきた。メスキータ(mezquita)とは、スペイン語でモスクという意味で、アラビア語の“Masjid”に由来するが、一般的には固有名詞として、コルドバにあるカトリック教会司教座聖堂コルドバの聖マリア大聖堂(Catedral de Santa María de Córdoba)を指す場合が多い。スペインに現存する唯一の大モスク(ムスリムの礼拝堂)である。

現在の外周は10mほどの高い塀および回廊で囲まれ、約175×135mの広がりとなって25,000人もの回教徒を収容する規模まで達した。

モスクにはミナレット(Minaret、光塔)が必ず付随して、塔上から祈りの時間を伝えるための歌「アザーン」が流される。メスキータのミナレットは「アミナール(Aminar、塔)」と呼ばれてきたが、尖塔の先にはコルドバを守護する聖ラファエロの像が据えられて、キリスト教の鐘楼に変身したことが了解される。

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ミナレット

この地には6世紀中頃、西ゴート時代にカトリックの聖ビセンテ教会があったが、イスラム勢力の支配後は共同使用された。後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラフマーン1世により新首都にふさわしいモスクが786-788年にかけて建設された。後の951年にはアブド・アッラフマーン3世により高さ40mのミナレットが新しく建設された。1593年にはエルナン・ルイス3世が鐘楼を加えた。現在、高さ54mになるミナレットの内部には203段の螺旋階段があり、上部のバルコニーまで登ることができる。

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免罪の門

1377年に建築が完了したこの免罪の門は、キリスト教の装飾が施されているが、モスクの時代からメスキータへの主要な入口として使用されていて、壁のアラベスク模様など、今でも当時の名残が見られる。

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オレンジの中庭からミナレット

免罪の門をくぐって中庭に入ると、椰子の木、糸杉やオレンジの木が目を引く。かつてイスラム時代には禊(みそぎ)の中庭とされていたが、16世紀末にフランシスコ・レイノソ司教がオレンジの木を植えた中庭となった。たわわに実るオレンジの実に心が和む。

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中庭からメスキータ

オレンジの中庭でメスキータのチケットを購入するため30分ほど並ぶ。アーチが美しい回廊に囲まれた中庭から壮大なメスキータの建物を見ようとしても、オレンジなどの木が茂っていて残念ながら全体像がつかめない。

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メスキータ内部の二重アーチ

中庭の右奥からメスキータの内に入ると、赤いレンガと白い石灰岩の二重の馬蹄型アーチが幻想的な円柱の森(礼拝の間)に驚く。786-788年にかけて建設されたアブド・アッラフマーン1世による最初のモスクの身廊は、その後833-848年、アブド・アッラフマーン2世による拡張、962-966年、アルハケム2世による拡張、991-994年、アル=マンスールによる拡張と、3回の増築で約5倍の面積となった。西の壁に沿って進むと、右側(西)には柵に囲まれて、キリスト教時代の様々な礼拝堂が並んでいる。左側(東)には円柱の森が広がっている。

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円柱の森

最初のモスクは、ダマスカスやエルサレムのモスクにヒントを得たバシリカ式の建築様式が用いられ、古代ローマや西ゴート時代の建物が再利用されているため、古代ギリシアの様式などが混在していた。その独創性は、天井を支えるための二重アーチに基づく建築構造にあり、後の増築部分の基盤を形成しただけでなく、建築の歴史に多大な影響を与えた。ローマ時代の水道橋をモデルにしたとされる。左に広がる円柱の森のすぐ右には、6世紀中頃の聖ビセンテ教会の遺跡が床下に残っている。

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『最後の晩餐』(パブロ・デ・セスペデス)

西側奥の右手には、パブロ・デ・セスペデスの祭壇画『最後の晩餐』が掲げられていた。コルドバ出身のセスペデスは、1560年代にイタリアに行き、いくつかの聖堂に壁画を描いた後、1570年代に帰郷してこの大聖堂に祭壇画『最後の晩餐』を描いた。

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ビセンテ教会の遺物

祭壇画の隣には、床下から発見された6世紀中頃の聖ビセンテ教会の遺跡の展示がある。上の大理石は初期キリスト教時代の石棺の破片であり、下の両脇の赤い煉瓦は6世紀の西ゴート時代の煉瓦であり、中央の大理石の下半分にはキリストを表す組み合わせ文字の上半分が読み取れる。CRISMON(クリスモン)と説明されているのは、ギリシア語のXPIΣTOΣ(クリストス)の最初の文字、X(キー)とP(ロー)を組み合わせたモノグラムを意味する。312年、コンスタンティヌス帝は夢に告知を受けて、このモノグラムをラバルム(軍旗)に掲げ、マクセンティウスとの戦いに勝利を得たという。左右にA(アルファ)とΩ(オメガ)を伴うなど、勝利の象徴的表現として初期キリスト教時代を中心に中世まで広く用いられた。

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ミフラーブ

西南の角を折れて南側に曲がると、メスキータの心臓部・ミフラーブ(Mihrab)がある。この最奥部分は962-966年、アルハケム2世による2回目の拡張で、全ての増築部分で最も創造性の高い工事といわれる。ミフラーブとは、イスラム教徒が祈りを捧げるメッカの方向を示す壁龕(くぼみ)だが、ここでは南を向いている。馬蹄型アーチには金地とガラスのビザンチン・モザイクによるクローバーやブドウなどの草花の装飾が施され、周囲にはコーランの一節も刻まれ、「イスラム建築の精華」といわれるほど美しい。

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マスクラ(貴賓室)

ミフラーブの八角形のドーム状の天井は、金と青のモザイクで美しく装飾されており、窓から光が差し込んで神秘的な雰囲気を醸している。祈りの声が反響しやすい形にしたこの空間はマスクラ(貴賓室)と呼ばれる。このような素晴らしいイスラム文化の結晶が、カトリック教会となっても800年近く保存されてきたことに驚嘆せざるを得ない。

 

コルドバ、シナゴガ、マイモニデス像

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シナゴガ中庭

コルドバ市街地の東南に流れるグアダルキビル川の近くに、イスラム教とキリスト教が共存するメスキータ大聖堂があり、その周辺には迷路が広がる旧ユダヤ人街がある。かつて西カリフ帝国の経済を支える存在として歴代カリフに厚遇されて来たユダヤ人は、レコンキスタ終了後の1492年にカトリック両王により布告されたユダヤ人追放令によってこの街から姿を消した。

そのユダヤ人街の西地区にシナゴガがある。アンダルシア地方に唯一現存するユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)で、スペインではシナゴガと呼ばれる。地元の建築家イーシャク・モヘブ(Yishaq Moheb)が設計し、1315年(ユダヤ暦5075年)に当時人気のムデハル(Mudejar)様式で建てられた礼拝堂で、質素な外観をしている。中庭(Patio)の右手の入口を入ると前室(Atrium)があり、右手に2階の女性用ギャラリーに上る階段がある。

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祈りの部屋

シナゴガ内部の前室を通り抜けると祈りの部屋になる。6.95×6.37mのほぼ正方形で、天井は高く、東西南北の壁にはイスラムの影響を受けた複雑なデザインの漆喰装飾が施されている。

東壁に祭壇が設けられ、アルコーブの上部にはアーチの外側を囲むアルフィズ(Alfiz)の3辺に、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の原点ともいうべきユダヤ教聖典タナハの一節が彫り込まれていた跡が残っている。ヘブライ語詩篇は、右下から右上へ、上辺の右から左へ、左上から左下へと記されていたという。

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ヘブライ語の碑文

アルフィズの右側装飾の一番下には、ヘブライ語で右から左へ次のように記されている。「イーシャク・モヘブによる仮の祭壇と住まい、神よ、急いでエルサレムに戻って来てください」。左側装飾の下にも対照的に碑文があったはずだが、壊されている。これらのヘブライ語の壁には、1492年にユダヤ人が追放された後、フレスコ画が塗り重ねられていたが、1884年にフレスコ画が崩壊して元のヘブライ語の壁が発見され、翌年にはシナゴーグが国定記念物として宣言され、その後修復された。

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七枝燭台(メノーラー)

東壁のアルフィズの下、祭壇の中央には7本足の燭台(メノーラー)が、置かれている。イスラエルの国家紋章は、七枝燭台の周りにオリーブの枝を配している。オリーブの枝はユダヤ民族の平和への願いを象徴。七枝燭台は創世記エデンの園でアダムとエバに与えた永遠の生命の樹に由来する。七枝燭台に灯る火は神の目とされ、シナゴーグの祭壇には必ず七枝燭台の火を灯さねばならないとされる。

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多弁アーチ

向かいの西壁には秀麗な多弁アーチがあり、その奥の内陣にはサンタ・キテリア(Saint Quiteria)の祭壇画があったという。その周りのアラベスク模様も変化に富み美しい。

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アラベスク模様

東北隅の壁にもアラベスク模様が描かれ、よく見ると様々なデザインが施されている。アラベスクとは、小アジアギリシア・ローマ時代に使われていた植物連続模様が元で、イスラム美術の主要な装飾モチーフとして様式化が進み、イスラムの代表的文様となった。ルネサンス以降、西洋の建築、工芸の装飾にも採用され、「アラビア風の」という語義でアラベスクと呼ばれるようになった。

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2階の女性用ギャラリー

祈りの部屋入口の周りは南壁となり、2階の女性用ギャラリーが見える。アーチの両側など各所にヘブライ語詩篇が記され、柱や壁もアラベスク模様でぎっしりと覆われている。

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ユダヤ人哲学者マイモニデス

シナゴガのすぐ先には、コルドバ出身のユダヤ人哲学者マイモニデスの像がある。1年前に出版された中村小夜の『昼も夜も彷徨え−マイモニデス物語』(中公文庫)を、旅行直前に読書会で読んだので、興味津々でマイモニデス像に会いに来た。ユダヤ教のラビの名門出身で、本名はヘブライ語でモーシェ・ベン・マイモーンという。医学・天文学・神学・ユダヤ文学にも精通した偉人として知られる。像の足を撫でるとその頭脳にあやかれると言われているようで、ピカピカに光っている像の足元をみると、どこの国も庶民の気持ちは同じだなと思われた。この下にマイモニデスの墓がある。

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マイモニデス

コルドバで生まれたマイモニデス(1128or1138-1204)は、ムワッヒド朝1130-1269)によるユダヤ教徒キリスト教徒迫害・虐殺を避けるため、モロッコのフェズに移住した。そこで隠れユダヤ教徒(棄教を強制され偽装改宗した者)を攻撃する匿名の書簡に反論する論文を書いた。しかし命を狙われたためパレスチナに行き、ユダヤ教の聖地を訪問した後、エジプトに移住した。ユダヤ教徒社会で指導者となり、1173年、エジプトを支配するアイユーブ朝1171-1250)の君主サラディンの妃に使えていた女性と結婚する。アイユーブ朝の宰相ファーディルと親交を結び、宮廷医となり、著作に専念した。ユダヤ法の諸資料を法典化した『ミシュネー・トーラー』や哲学書『迷える人々のための導き』など多くの書物を執筆した。「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と賞賛され、ルネサンスヒューマニズムの先駆者として評価されている。1977年の生誕850周年記念にマイモニデスの像が造られた。

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マイモニデス広場

マイモニデスの像のすぐ先にマイモニデス広場がある。この辺りは細く曲がりくねった道も多いので、このように何もない広場はかえって奇異に映る。と思う間もなく、脇の道から観光客が出てくる。

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ユダヤ人街の道

車も通らないような旧ユダヤ人街の細い道を南に進み、王城アルカサルに向かう。

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ジグザグの道

細道はジグザグに曲がって進むが、白壁や石積み模様の壁も風情がある。『マイモニデス物語』で、マイモーン少年が追手から逃げ延びる場面を想像できて面白い。

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アラブ浴場跡

道が開けたところにアラブ浴場跡があった。イスラム支配時代、ハカム2世治下の10世紀に造られたアラブ風呂跡で、歴代カリフたちが礼拝前に身を清めたとされる。20世紀初頭に発見され公開されていたが、あいにく修復工事中だった。

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観光馬車

アルカサルの手前の広場、左手に背の高い壁が連なる前に、観光馬車が屯ろしていた。壁の内側は市立図書館と思われる。コルドバ756年に成立したイスラム教徒による後ウマイヤ朝の首都となり、10世紀にはアブド・アッラフマーン3世とハカム2世の治世下で繁栄を遂げ、大図書館が建てられて多くの学者が活躍した。トレドと並んで西方イスラム文化の中心として発展し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となった。

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アルカサル(王城)

アルカサルという王城は、「キリスト教徒の王たちのアルカサル」と呼ばれる。1236年、レコンキスタが本格化し、コルドバキリスト教勢力によって陥落した。1386年、アルフォンソ11世が今日に残るアルカサルの建設をかつての要塞跡に開始した。カトリック両王が開始したアルカサルにおける異端審問は、その後3世紀に亘り続いた。1489年、スペイン軍はイベリア半島最後のイスラム王国であったナスル朝グラナダを攻略し、1492年にレコンキスタが完了した。その年アルカサルで、後にアメリカを発見するコロンブスカトリック両王との謁見が行われた。

イスラムの影響が残る王城と美しく手入れされたアラブ式の庭園が見どころとされるが、残念ながら時間がなく割愛した。