半坪ビオトープの日記

コルドバ、シナゴガ、マイモニデス像

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シナゴガ中庭

コルドバ市街地の東南に流れるグアダルキビル川の近くに、イスラム教とキリスト教が共存するメスキータ大聖堂があり、その周辺には迷路が広がる旧ユダヤ人街がある。かつて西カリフ帝国の経済を支える存在として歴代カリフに厚遇されて来たユダヤ人は、レコンキスタ終了後の1492年にカトリック両王により布告されたユダヤ人追放令によってこの街から姿を消した。

そのユダヤ人街の西地区にシナゴガがある。アンダルシア地方に唯一現存するユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)で、スペインではシナゴガと呼ばれる。地元の建築家イーシャク・モヘブ(Yishaq Moheb)が設計し、1315年(ユダヤ暦5075年)に当時人気のムデハル(Mudejar)様式で建てられた礼拝堂で、質素な外観をしている。中庭(Patio)の右手の入口を入ると前室(Atrium)があり、右手に2階の女性用ギャラリーに上る階段がある。

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祈りの部屋

シナゴガ内部の前室を通り抜けると祈りの部屋になる。6.95×6.37mのほぼ正方形で、天井は高く、東西南北の壁にはイスラムの影響を受けた複雑なデザインの漆喰装飾が施されている。

東壁に祭壇が設けられ、アルコーブの上部にはアーチの外側を囲むアルフィズ(Alfiz)の3辺に、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の原点ともいうべきユダヤ教聖典タナハの一節が彫り込まれていた跡が残っている。ヘブライ語詩篇は、右下から右上へ、上辺の右から左へ、左上から左下へと記されていたという。

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ヘブライ語の碑文

アルフィズの右側装飾の一番下には、ヘブライ語で右から左へ次のように記されている。「イーシャク・モヘブによる仮の祭壇と住まい、神よ、急いでエルサレムに戻って来てください」。左側装飾の下にも対照的に碑文があったはずだが、壊されている。これらのヘブライ語の壁には、1492年にユダヤ人が追放された後、フレスコ画が塗り重ねられていたが、1884年にフレスコ画が崩壊して元のヘブライ語の壁が発見され、翌年にはシナゴーグが国定記念物として宣言され、その後修復された。

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七枝燭台(メノーラー)

東壁のアルフィズの下、祭壇の中央には7本足の燭台(メノーラー)が、置かれている。イスラエルの国家紋章は、七枝燭台の周りにオリーブの枝を配している。オリーブの枝はユダヤ民族の平和への願いを象徴。七枝燭台は創世記エデンの園でアダムとエバに与えた永遠の生命の樹に由来する。七枝燭台に灯る火は神の目とされ、シナゴーグの祭壇には必ず七枝燭台の火を灯さねばならないとされる。

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多弁アーチ

向かいの西壁には秀麗な多弁アーチがあり、その奥の内陣にはサンタ・キテリア(Saint Quiteria)の祭壇画があったという。その周りのアラベスク模様も変化に富み美しい。

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アラベスク模様

東北隅の壁にもアラベスク模様が描かれ、よく見ると様々なデザインが施されている。アラベスクとは、小アジアギリシア・ローマ時代に使われていた植物連続模様が元で、イスラム美術の主要な装飾モチーフとして様式化が進み、イスラムの代表的文様となった。ルネサンス以降、西洋の建築、工芸の装飾にも採用され、「アラビア風の」という語義でアラベスクと呼ばれるようになった。

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2階の女性用ギャラリー

祈りの部屋入口の周りは南壁となり、2階の女性用ギャラリーが見える。アーチの両側など各所にヘブライ語詩篇が記され、柱や壁もアラベスク模様でぎっしりと覆われている。

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ユダヤ人哲学者マイモニデス

シナゴガのすぐ先には、コルドバ出身のユダヤ人哲学者マイモニデスの像がある。1年前に出版された中村小夜の『昼も夜も彷徨え−マイモニデス物語』(中公文庫)を、旅行直前に読書会で読んだので、興味津々でマイモニデス像に会いに来た。ユダヤ教のラビの名門出身で、本名はヘブライ語でモーシェ・ベン・マイモーンという。医学・天文学・神学・ユダヤ文学にも精通した偉人として知られる。像の足を撫でるとその頭脳にあやかれると言われているようで、ピカピカに光っている像の足元をみると、どこの国も庶民の気持ちは同じだなと思われた。この下にマイモニデスの墓がある。

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マイモニデス

コルドバで生まれたマイモニデス(1128or1138-1204)は、ムワッヒド朝1130-1269)によるユダヤ教徒キリスト教徒迫害・虐殺を避けるため、モロッコのフェズに移住した。そこで隠れユダヤ教徒(棄教を強制され偽装改宗した者)を攻撃する匿名の書簡に反論する論文を書いた。しかし命を狙われたためパレスチナに行き、ユダヤ教の聖地を訪問した後、エジプトに移住した。ユダヤ教徒社会で指導者となり、1173年、エジプトを支配するアイユーブ朝1171-1250)の君主サラディンの妃に使えていた女性と結婚する。アイユーブ朝の宰相ファーディルと親交を結び、宮廷医となり、著作に専念した。ユダヤ法の諸資料を法典化した『ミシュネー・トーラー』や哲学書『迷える人々のための導き』など多くの書物を執筆した。「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と賞賛され、ルネサンスヒューマニズムの先駆者として評価されている。1977年の生誕850周年記念にマイモニデスの像が造られた。

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マイモニデス広場

マイモニデスの像のすぐ先にマイモニデス広場がある。この辺りは細く曲がりくねった道も多いので、このように何もない広場はかえって奇異に映る。と思う間もなく、脇の道から観光客が出てくる。

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ユダヤ人街の道

車も通らないような旧ユダヤ人街の細い道を南に進み、王城アルカサルに向かう。

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ジグザグの道

細道はジグザグに曲がって進むが、白壁や石積み模様の壁も風情がある。『マイモニデス物語』で、マイモーン少年が追手から逃げ延びる場面を想像できて面白い。

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アラブ浴場跡

道が開けたところにアラブ浴場跡があった。イスラム支配時代、ハカム2世治下の10世紀に造られたアラブ風呂跡で、歴代カリフたちが礼拝前に身を清めたとされる。20世紀初頭に発見され公開されていたが、あいにく修復工事中だった。

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観光馬車

アルカサルの手前の広場、左手に背の高い壁が連なる前に、観光馬車が屯ろしていた。壁の内側は市立図書館と思われる。コルドバ756年に成立したイスラム教徒による後ウマイヤ朝の首都となり、10世紀にはアブド・アッラフマーン3世とハカム2世の治世下で繁栄を遂げ、大図書館が建てられて多くの学者が活躍した。トレドと並んで西方イスラム文化の中心として発展し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となった。

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アルカサル(王城)

アルカサルという王城は、「キリスト教徒の王たちのアルカサル」と呼ばれる。1236年、レコンキスタが本格化し、コルドバキリスト教勢力によって陥落した。1386年、アルフォンソ11世が今日に残るアルカサルの建設をかつての要塞跡に開始した。カトリック両王が開始したアルカサルにおける異端審問は、その後3世紀に亘り続いた。1489年、スペイン軍はイベリア半島最後のイスラム王国であったナスル朝グラナダを攻略し、1492年にレコンキスタが完了した。その年アルカサルで、後にアメリカを発見するコロンブスカトリック両王との謁見が行われた。

イスラムの影響が残る王城と美しく手入れされたアラブ式の庭園が見どころとされるが、残念ながら時間がなく割愛した。