翌日はアトーチャ駅から約2時間renfeの高速列車AVEに乗り、セビリア、マラガに次ぐ、アンダルシア第3の都市コルドバ(Cordoba)に着く。駅の南東に旧市街があるので、その中間に宿をとった。歩き初めてすぐに大きなアグリクルトゥーラ公園を斜めに突っ切る。ヤシの木やプラタナスなどの高木が立ち並ぶ中、整備された遊歩道には犬を連れて散歩する人も見かけられた。
アルタミラの洞窟に代表されるように、スペインの歴史は旧石器時代のイベリア半島北部から始まる。紀元前900年頃にケルト人が移住してきて先住のイベロ人と混血し、現在のスペイン人の原型ができた。その後、フェニキア人やギリシア人、カルタゴ人が南東部沿岸に入植し、やがて700年にわたってローマの支配下に入る。コルドバは、ローマの属州ヒスパニア・バエティカの首都として栄え、現在でもローマ寺院やローマ橋などの遺跡が残されている。711年にイベリア半島に侵攻したイスラム教徒は、占領した土地をアル・アンダルスと呼び、その首都をコルドバに置いた。756年にはバグダッドのアッバース朝によってダマスカスを追われたウマイヤ家の最後の一人が、アブド・アッラフマーン1世としてコルドバで即位。この清王朝は後ウマイヤ朝(西カリフ帝国)と呼ばれ、929年に即位したアブド・アッラフマーン3世の時代に全盛期を迎え、街には300ものモスクが建てられた。ヨーロッパが「暗黒の中世」と呼ばれたこの時代、コルドバにはイスラム教の伝来とともに、古代ギリシアやローマの文献がアラビア語によって伝えられた。モスクにはスペインで最初のマドラサ(学院)が設けられ、多くの学問が11〜13世紀にラテン語に訳され、アリストテレスやプトレマイオスの業績を構成に伝えた。1236年にキリスト教徒はコルドバを奪回(レコンキスタ)したが、今でもイスラム文化の面影があちこちに残されている。
正午には宿に着くはずが、なかなか宿が見つからない。ようやく柱に宿の表示を見つけた。荷物だけでも預けたかったが、アパートの一室を貸し出しているようで玄関の扉が開かない。チェックインは14時からなので、昼食をすませてから息子に電話で問い合わせてもらったら、バイクで来た若者が街路樹の柵にかけてあった南京錠を指差して、ここに鍵があるという。日本で最近流行っている民泊のシステムと同じようだ。電話の指示がわからないと鍵も手にできない。結局その若者も開けられず、掃除のお姉さんがやってくるまで待つハメになった。
荷物を携えて昼食を済ますため、横丁にオープンテラスを広げている小さなレストランで軽いランチにした。まず最初に、トルティーヤ・デ・パタタ(Tortilla de patata)。いわゆるジャガイモのスペイン風オムレツである。ボリュウムがあって、食べ応えがある。
こちらは小イカの墨煮(Chipirones en su tinta)。バスク地方が有名な料理、ヤリイカならCalamares en su tintaという。左に添えられた炒めライスには、褐色で細長い野生米(Zizania)が混じっている。
こちらの肉料理は、イベリコ豚のソテー(煮込み)。赤ワインを飲みながら、美味しくランチを楽しめた。
ようやく部屋に荷物を置き、早速街中に出かけた。グレートキャプテンの歩行者天国の中央にあるサン・ニコラス・デラ・ヴィラ(San Nicolós de la Villa)教会は、13世紀に建てられたゴシック様式のムデハール様式で、15世紀に改装されている。八角形の塔が魅力的である。教会内には、16世紀のバプテスマ礼拝堂、金細工師のダミアン・デ・カストロによる聖体礼拝堂などがある。
コルドバの歴史地区・旧ユダヤ人街の西の端にあるアルモドバル門を西にくぐると、広場にセネカ像が建っている。ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca、BC1年頃〜AD65年)は、第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師を務め、ローマ帝国の政治家・詩人としても活躍したコルドバ出身のストア派の哲学者である。ネロが皇帝になると5年間はネロの善政を支えたが、暴政が始まると制御できず、辞任し隠棲した。狂気を増したネロは、セネカに陰謀の罪を着せ、セネカは自ら毒を仰いで死んだ。波乱に満ちた生涯だったが、多くの随筆を残し、ローマ帝政期の代表的なラテン語の文章家としても知られている。
アルモドバル門の左右には、アラブ城壁が長々と続いていて旧市街地を守っている。堀の跡だろうか、水も蓄えられている。
アラブ城壁の内側の旧市街地・旧ユダヤ人街は極めて幅の狭い路地が張り巡らされていて迷路のようである。案内に従って進み、ユダヤ教の礼拝堂シナゴーグに向かう。