ちょうどこの夏、一支博では特別企画の広重展が開催されていた。広重の代表作「東海道五十三次」全55枚を中心に、壱岐を描いた「六十余州名所図会 壱岐志作」他が展示されている。歌川広重(寛政9年〜安政5年、1797-1858)は、江戸時代末期の浮世絵師で、名所図会など風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。安政5年9月6日、流行のコロリを患い急死した。享年62歳。この広重肖像画は、安政5年作、絵師は三代歌川豊国である。広重の辞世の句は、「東路へ筆をのこして旅の空 西の御国の名ところを見舞(みん)」。
三島の次が沼津の黄昏図。連作中唯一の満月が中央奥に木に半分隠れて描かれる。巡礼の母子に続く、大きな天狗面を背負う金毘羅参りの男の姿が面白い構図だ。
次に目を引くのは、蒲原の夜之雪。前後の宿には雪は降らず、いきなりの雪景色がひっそりとした沈黙の世界を存分に描き出している。
ずっと飛ばしてこれは三十七枚目の三河赤坂宿の旅舎招婦ノ図。東海道で唯一21世紀まで営業を続けた旅籠がある宿場である。右の部屋では二人の飯盛女が化粧に余念がない。飯盛女とは副題にある招婦(娼婦)のこと。
四十六枚目は庄野の白雨。夏の夕立=白雨が激しく降る中、左に三人、右に二人の男達が先を急いですれ違う。風に煽られる竹林と激しい雨と共に動きを感じさせる見事な構図だ。
最後に京師の三条大橋に辿り着く。京師(けいし)とは漢字文化圏で帝王の都のこと、日本では京都。大尾(たいび)とは、終局、結末、(全くの)終わり。日本橋から124里26町、約492kmで京の都まで。北九州の壱岐島で、広重の「東海道五十三次全図」を見ることになるとは妙な巡り合わせであった。
これが壱岐を描いたという「六十余州名所図会 壱岐志作」(安政3年)。六十余州名所図会は七道六十八国の勝景・奇景を描いた六十九図からなる揃い物。後の大作「名所江戸百景」につなげた。「壱岐志作」は、長崎県北松浦半島の志佐辺りから、伊万里湾、壱岐水道を経て、壱岐の島を遠望した図といわれる。『北斎漫画』七編「壱岐志作」からの転用と指摘されるが、広重は雪景に描き変えている。元々、広重は各地の風景画を数多く描いたが、実際に訪れて描いたものは少なく、各地の名所図会を参考にアレンジしたものが多い。この「壱岐志作」も、この地がそれほどの豪雪地帯ではないので、違和感を感じさせる。