半坪ビオトープの日記

パラティーナ美術館、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会


ルーベンスの作品があるマルスの間の中には、数えきれないほどいくつもの絵が掲げられているが、入口や出口の周りにも困るほどたくさんある。一般公開されている絵画だけでも800点以上あるそうだ。

こちらはグイード・レーニ(1575-1642)の「クレオパトラの死(1635頃)」。ラファエロ風の古典主義の絵。ゲーテに「神の如き天才」と称えられたという。紀元前31年のアクティウム海戦でクレオパトラアントニウス連合軍は、オクタヴィアヌス軍に惨敗し、クレオパトラアレクサンドリアの王宮で自殺を決意する。天を仰ぐクレオパトラは何を思っているのか。イチジクの籠に忍ばせて自室に運んだ毒蛇に、右の乳房を咬ませる最後の場面である。

こちらはティツィアーノの「青い服の婦人の肖像(ラ・ヴェッラ、1536)」。ナポレオンによってパリに持ち去られ、1799年にルーブル美術館所蔵となったが、「会議は踊る」で有名な1814年のウィーン会議の決定で、フィレンツェに無事戻ってきたという。

ここからは、歴代のトスカーナ大公や国王が住まいにしていた君主の居室が続く。この赤で統一された「王座の間」は、19世紀後半、混沌としていたイタリアを統一し、一時フィレンツェに首都を置いたイタリア王国の初代国王ヴィットリオ・エマニエーレ2世のために調えられ、緋色のシルクの壁や絨毯、日本製や中国製の磁器などの調度が豪華な雰囲気を作っている。

君主の居室はピッティ宮殿2階の中庭を挟んだ右側に位置する一連の部屋で、壁や天井、調度品まで豪華絢爛で、歴代のファミリーの肖像画の並ぶ部屋もある。

いくつも続く部屋には、大きなシャンデリアや豪華な調度品が並ぶ。歴代大公やその家族たちが暮らした時代もそれぞれ違うので、バロック様式や、ロココ様式など贅を尽くした家具も趣の異なる装飾が施されている。

君主やその家族たちのための小さいが豪華に飾られた礼拝堂の部屋もある。

ピッティ宮殿の一角からフィレンツェ市内を眺望できる。北西に見える高い尖塔は、サント・スピリト教会(聖堂)の塔である。この教会はイタリアルネサンス初期を代表する建築家、フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)が1436年に設計したが、建造途中で彼が亡くなったため彼の後継者が建造を引き継いだ。建造期間は1441〜1487年。内部は荘厳で、フィリッポ・リッピの「聖母」などがある。

豪商ピッティ家によって建てられ、16世紀半ばからメディチ家所有となったピッティ宮殿の裏手には、付属するボーボリ庭園が展開する。イタリア式古典庭園の最高傑作といわれるボーボリ庭園は、約4万5千平方メートルもの広大な庭園で、メディチ家所有となってから、通称トリボロと呼ばれたニッコロ・ペリコリの指揮のもとに造園が始まった。その後、フィレンツェの著名な彫刻家たちに委ねられ、「ネプチューンの噴水」や「ブオンタレンティの洞窟」なども造られた。2ケ所の噴水広場のほか、園内随所に彫刻やオベリスクが配置されている。

広大なボーボリ庭園を見て回る時間は取れないので、ざっと眺め渡してピッティ宮殿に戻る。3階建ての2階にパラティーナ美術館と国王夫妻の居室があり、3階には衣装美術館、1階には銀器博物館と馬車博物館がある。1階の外周りには花壇がある。2階を見るだけで最低2時間はかかるので、それ以外も含めるとピッティ宮殿で1日潰れてしまう。

ピッティ宮殿の脇からフェレンツェ市内を見渡すと、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)とその左のジョットの鐘楼が見え、それらの右手にヴェッキオ宮殿の高い塔が認められる。

フィレンツェはローマに劣らず見所がいっぱいあって、この後もバルジェッロ国立博物館、サンタ・クローチェ教会、考古学博物館、メディチ・リッカルディ宮などの見学を計画していたが、年甲斐もなく頑張りすぎて疲労困憊となり断念した。宿に戻る途中、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のスペイン人大礼拝堂の中だけ見た。正面ファサードの写真は夕方息子が撮ってきてくれたものだ。この美しすぎるファサードは、ルネサンス以前に建設が開始され、ようやく1920年に完成した、フィレンツェルネサンス期の最も重要な建築作品の一つである。最上部アーキトレーブ(三角形の下の帯状部)には「パオロの息子、ジョヴァンニ・ルチェッライ、1470年」と刻まれている。ファサードには、1572年にドメニコ会修道士で天文学者のエニツィオ・ダンティが取り付けた、右側のグノモン(日時計の影を投げる指時針)と左側のアーミラリー天球(渾天儀)という二つの科学的装置がある。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の前身はサンタ・マリア・ヴィーニェ教会である。1219年、12人のドメニコ会修道士がボローニャからフィレンツェに来て、二年後にその教会を手に入れた。その後改築に着手し、14世紀半ばに教会が、1470年に最初のファサードが完成した。1565年以降、ジョルジュ・ヴァザーリ等により幾度も改装・改修され、1920年に完成した現在のファサードも2008年に修復された。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会は、フィレンツェにおいてゴシック建築が適用された最初の建築物であり、全長99.2m、幅23.2mで、翼廊は最大61.54mある。
聖堂内部には、1290年頃制作のジョットの「キリスト磔刑」やジョルジュ・ヴァザーリの「キリストの復活と四聖人」、マザッチョの「三位一体」、ブルネッレスキの「十字架」などが数多く安置されているが、残念ながらスペイン人大礼拝堂の中だけしか見られなかった。この礼拝堂は1566年、トスカーナ大公コジモ1世の妻でスペイン人だったエレオノーラのために、宗教行事の場として、当時のスペイン人コミュニティに譲渡されたため、スペイン人大礼拝堂と呼ばれている。

壁面の装飾は、アンドレア・ボナイウートにより1365-67年に制作されたフレスコ画である。最下部左手にはドメニコ派の修道士が描かれ、背後に見える建物は、まだ計画のみだったフィレンツェのドゥオーモで、ブルネッレスキがクーポラの設計をする50年以上前に、その形を見事に予言している。

まだルネサンスが開花する前の時代の作品だが、様々な人物表現のフレスコ画が見られて興味深い。