半坪ビオトープの日記

ヴェッキオ宮殿


フィレンツェ市役所として使われているヴェッキオ宮殿は、教会など全ての観光施設が休みの元旦でも午後3時には開いていて、便利なFirenze-cardも売っている。事前に予約していたが中庭で多少は並んだ。天井や壁、柱の装飾は、フランチェスコ1世が1565年にオーストリア皇帝の娘、ハプスブルグ家のジョヴァンナと結婚する際に、ヴァザーリが改装したものだという。右の壁にある玉々の紋章は、メディチ家の紋章である。真ん中の噴水に立つ像は、ダ・ヴィンチの師匠だったヴェロッキオが作った「イルカを抱いた天使」のレプリカであり、本物は3階にある。

中に入ると小さな「最後の晩餐」の絵があった。有名なダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるが、今回の旅では残念ながらミラノは訪れなかった。

ヴェッキオ宮殿の2階に上がると、500人を収容できる「五百人広間」(Salone dei Cinquecento)と呼ばれるフィレンツェ共和国の市民評議会会議場だった部屋がある。フィレンツェのピサとシエーナに対する勝利とコジモ1世の礼賛のために天井も周囲の壁面もヴァザーリとその弟子たちによる絵画で埋め尽くされた。3階から眺めると、天井画を間近に見ることができる。

天井にはコジモ1世の生涯の大切なエピソードを描いた天井画が39枚、豪華な縁取りで並んでいるが、その中央にはヴァザーリに装飾を命じた、コジモ1世が礼賛されている絵が描かれている。

五百人広間に並ぶ彫像は、もっとも有名なミケランジェロ作の「勝利像」の他に、ヴィンチェンツォ・デ・ロッシ作の「ヘラクレスとケンタロウス」や「アマゾン族の女王を倒すヘラクレス」など「ヘラクレスの功業」の6像が並ぶが、これはジャン・ボローニャ作の「ピサを征服したフィレンツェ」である。フィレンツェは毛織物業と金融業で財をなし、トスカーナの大部分を支配してフィレンツェ共和国の首都となったが、わずか80kmほど離れたピサは、海運国家として貿易で栄えたが各地の海運国家と戦いが絶えなかった。フィレンツェとピサも覇権争いで仲が悪く何度も戦っている。15世紀頃でいうと1409年と1509年の二度フィレンツェがピサを征服している。

大会議場は幅23m、奥行54m、高さ18mあり、右の壁面にはヴァザーリにより描かれた「シエナ攻略」の壁画が3枚並んでいる。

左の壁面にはヴァザーリにより描かれた「ピサ攻略」の壁画が3枚並んでいる。

左壁面の「ピサ攻略」の一番右の壁画「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」の裏側に、レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の壁画「アンギアーリの戦い」が隠されていると、2007年5月にイタリア文化庁が発表した。この壁画の中央上部の緑色のフィレンツェ軍旗に「CRECA TROVA(探せ、さらば見つからん)」との聖書の言葉をヴァザーリが書き残してあるという。1505年頃、フィレンツェ共和国ダ・ヴィンチミケランジェロにこの部屋の壁画を競作させたが、いずれも未完となった。ミケランジェロの「カッシーナの戦い」は彼の才能を妬んだバルトロメオ・バンデネッリにより切り刻まれたが、ダ・ヴィンチの壁画「アンギアーリの戦い」は、その上にヴァザーリが絵を描いたので幻とされていたのであった。

ここはレオ10世の間。メディチ家の出身で、彼が教皇になったためにメディチ家フィレンツェの君主として返り咲くことができた。

ここもレオ10世の間。人間と鳥や植物・動物、なびくリボンなどが繰り広げる不思議な模様は、グロテスク文様という。古代ローマの地下遺跡(グロッタ)で見つかったためにイタリア語で「グロッテスキ(grotteschi)と名付けられたのが起源といわれる。

これは四大元素の間のフレスコ画で、ヴァザーリが「ヴィーナスの誕生」を描いている。

ここは、コジモ1世の妃、エレオノーラ・トレドの礼拝堂で、この祭壇画「ピエタ」のほか堂内の絵画全てをアーニョロ・ブロンズィーノが描いている。

こちらはチャペル・オブ・プリア(カッペッラ・ディ・プリオーリ)という礼拝堂であり、装飾はギルランダイオによる。

これは3階にあるダンテのデスマスク。ダンテはフィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家で、代表作は「神曲」。13世紀当時のイタリアはローマ教皇庁神聖ローマ帝国が対立し、グェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)に別れて反目し合っていた。ダンテはフィレンツェのグェルフィ党員として市政に参加し、カンパルディーノの合戦にも参加している。合戦には勝利したが教皇派は二つに分裂し、ダンテは白党の三人の統領にも選ばれた。だが後に黒党の政変によって白党幹部はフィレンツェから追放され、罰金も払わなかったダンテは永久追放となり、一生フィレンツェに戻ることはできなかった。「神曲」の中でもその恨みつらみは表現され、彼がいかにフィレンツェを愛し、戻りたかったかを知ることができる。1911年にデスマスクがヴェッキオ宮殿に寄贈された。

ここが謁見の間。共和国時代には総督の会議や法廷として使われた場所で、格天井や大理石の入口なども豪華である。当時のメディチ家の財力が遺憾なく発揮されている。

謁見の間の隣にユリの間がある。天井や壁にユリの紋章が散りばめられている。百合はフィレンツェのシンボルだそうだ。壁画はギルランダイオの作である。