半坪ビオトープの日記

ピッティ宮殿、パラティーナ美術館


フィレンツェ3日目にピッティ宮殿の中に入る。アルノ川の西岸に位置するピッティ宮殿は、ルネサンス様式の広大な宮殿で、1587年にフェルディナンド1世が即位して以降、ヴィットーリエ・エマヌエーレ3世によってイタリア国民に移譲されるまで、トスカーナにおける宮廷の役割を果たし続けた。約400年にわたりメディチ家を中心として収集された絵画や宝飾品のコレクションは膨大な数に上る。

1457年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティはピッティ宮殿の建設に着手した。ピッティは、後に「祖国の父」と呼ばれるコジモ・デ・メディチのライバルであり、メディチ宮よりも優れた建物を作りたいと思っていた。だがコジモの子ピエロ・ディ・コジモに対する陰謀発覚によって工事は中断され、完成を見ることなくピッティは死去した。その後、1550年頃、初代トスカーナ大公コジモ1世が宮殿を買い取り、建設が再開され、その後完成した。1580年以降、コジモ1世の家族はこの宮殿で過ごすことになった。

現在、ピッティ宮殿にはパラティーナ美術館や銀器博物館、衣装博物館、陶磁器博物館などが併設され、まとめてピッティ美術館と呼ばれる。ピッティ宮殿の2階にあるパラティーノ美術館では、コジモ2世により1620年頃から収集が始められ、1833年から公開が始まった。
館内に入るとすぐ天井画に目がいく。ローマ神話の戦の女神ミネルヴァであろうか。兜を被った女神が戦を指揮している様子。

壁一面にずらりと額に入った絵が並んでいる。これはヤコポ・ダ・ポントルモの「百万の殉教」。ヤコポ・ポントルモ(1494-1557)は、マニエリスム期の画家で、代表作はピッティ宮殿のすぐ近くにある、サンタフェリチタ聖堂の「受胎告知」と「十字架降架」。

こちらは、ラファエロ・サンティの「大公の聖母(1504頃)」。ラファエロフィレンツェに活動の拠点を移した頃に描かれ、メディチ家が断絶した後にトスカーナ大公を継承したハプスプルグ家のフェルディナンド3世が所有したことから「大公の聖母」と呼ばれた。フェルディナンド3世は、この作品を寝室にかけて、旅行中も携帯して手放さなかったという。

こちらは、ラファエロの「バルダチーノ(天蓋)の聖母」。1507年頃の作品である。高さ3m近い大作で、初期の集大成とも称される。教会の祭壇画として依頼されたが、残念ながら未完といわれる。

「バルダチーノの聖母」の下に掲げられているのは、同じくラファエロの「アニョーロ・ドーニの肖像」とその妻の「マグダレーナ・ドーニの肖像」。フィレンツェの裕福な商人夫妻の肖像で、夫人のポーズはモナ・リザに基づくとされる。1506年頃の作品。

こちらも同じくラファエロの作品で、「ピッピエンナ枢機卿の肖像」。1516年頃の作品。ピッピエンナ枢機卿はレオ10世の元家庭教師にして秘書。レオ10世が教皇になる時のコンクラーベで活躍したという。

こちらがラファエロの「小椅子の聖母」。1514年頃のローマ期の作品。生涯に数多くの聖母子像を描いた、ラファエロの作品の中でも代表作とされるほど熱狂的に愛されている。そうなるといつも話題になるのがモデルは誰かという問い。ここでも威厳のある聖母というより、人間的な親しみやすさに満ちた顔つきは、ラファエロがキージ・ファルネーゼ荘のフレスコ画を描いていた時に知り合った近くのパン屋の娘マルゲリータ・ルティであろうといわれている。

こちらは「ヴェールを被った女」。1516年頃の作品。こちらもモデルは、ラファエロの生涯の恋人・パン屋の娘マルゲリータという説が有名である。ラファエロがビッビエーナ枢機卿から紹介された、枢機卿の姪マリア・ビッビエーナと結婚することを決意し別れたため、実現できなかった思いを込めて婚礼の衣装を身に着けて描いたのではないかと考えられている。マリアと婚約してもなかなか結婚までに踏み切れずにいるうちに、マリアは病気を患い亡くなってしまった。ラファエロは生涯妻を娶らず、マルゲリータとの愛を貫いたといわれるが、若くして病に倒れ、37歳の誕生日に息を引き取った。

こちらはアンドレア・デル・サルトの代表作「受胎告知(1512頃)」。同じく代表作の「ノリメタンゲレ(我に触れるな)」、「聖三位一体についての議論」とともに、サン・ガッロ聖堂の祭壇画として制作されたが、1529年に同聖堂が壊されると、メディチ家の別荘などを転々とし、最後にパラティーナ美術館に収蔵された。天使たちの右手頭上には、父なる神の三位「聖霊」が描かれている。

こちらはかつて玉座の控えの間として使われた部屋、マルスの間(第30室)の天井画。ピエトロ・ダ・コルトーナが1643〜47年に制作。愛の女神ヴィーナスの手から引き離され、太陽の神アポロンに運命を示唆されたメディチの王子が、軍神マルスに導かれ敵を倒して権力を手にしていく場面。天井画の中央にはメディチ家の紋章が大きく描かれている。

こちらはピーテル・パウルルーベンスの「四人の哲学者」。1611年に他界したルーベンスの兄フィリップの追悼のためにその頃描かれた作品。右から人文学者のウォヴェリウス、有名なストア哲学者でありフィリップの師であったリプシウス、そして兄フィリップがモデルとなっていて、背後に立つのはルーベンス自身である。リプシウスを中心に哲学的な議論を交わしているが、その右手上方にはセネカの胸像が掲げられている。

こちらはルーベンスの大作(206×345cm)「戦争の惨禍(1637-38)」。ルーベンスが手がけた政治的寓意画の最高傑作の一つとされる。当時のトスカーナ大公フェルディナンド・ディ・メディチのために、大公の宮廷画家ユストゥス・シュステルマンスの依頼によって制作された。ヤヌスの神殿の開いた扉から出てきた軍神マルスが、恋人のウェヌス(ヴィーナス)の制止を振り切り、調和や愛、文化、学問、芸術などを蹂躙しながら、復讐の女神アレクトや戦争によって引き起こされる疫病や飢饉の怪物に導かれ邁進していく姿を描いている。画面左のベールを裂かれ宝飾具を一切身に着けない黒衣の女性は、度重なる略奪や争いに見舞われた悲惨な欧州の寓意的表現であり、そのアトリビュートとして隣の天使(精霊)が、キリスト世界を象徴する十字架と組み合わされた地球儀を手にしている。当時の三十年戦争などの欧州の国際情勢の悪化に対する、ルーベンスの政治的な声明を込めた最後の作品といわれる。