半坪ビオトープの日記

洞爺湖、中島


洞爺湖の「とうや」とは、アイヌ語の「トヤ」(湖の岸)に由来し、湖の北岸を指す地名であったが、和人はその北岸を向洞爺と呼んで洞爺を湖の名にした。アイヌの人々は洞爺湖のことを「キムント」(山の湖)と呼んでいた。地元では「どうや」と呼ぶこともある。
大小4つの島全体が中島国有林となっているが、林野庁では一番大きい中島(大島)を「レクリエーションの森」(風景林)に指定し、島内散策のための遊歩道を設けている。

船着場に着くとすぐ目の前に神木とされる2本の桂の巨木が立っている。「ウンクル・セトナの桂の木」と呼ばれ、倭人シャクシャインの戦いに翻弄された、美しいアイヌの乙女と戦士ウンクルの悲恋に由来し、二人の化身として祀られているという。

「緑の宝石」中島国有林の散策コースは、カラマツやトドマツの林を巡る約2kmの周遊コースと、島の中央のアカエゾマツ巨木の倒木を目指すアカエゾマツコースがある。船着場周辺はエゾシカの食害を防ぐためフェンスが巡らされているが、ゲートを越えるとどちらのコースも最初は明るいマツ林の中を進む。

2種類の松ぼっくりが落ちていたが、左がエゾマツで、右がアカエゾマツであろう。そばに風変わりなキノコが生えていた。世界的に広く分布するハナビラニカワタケと思われるが、ほぼ無味無臭でキクラゲ同様食用にできる。

中島にはエゾシカが多数生息していて植物が減少しているが、元々この島に生息していたわけではない。1957年にオス1頭、翌年メス1頭、1965年に妊娠したメス1頭の計3頭が導入されたことによる。以後個体数が増えて約400頭となり、その後、食料の植物が減少して個体数の増減を繰り返している。冬季にはササしかないためササがほぼ全滅し、エゾシカが食べない植物だけが増加している。その筆頭がこのフッキソウ(Pachysandra terminalis)で、あちこちに群生している。

スミレ類もこの半世紀でずいぶん消滅したとされるが、ミヤマスミレ(Viola selkirkii)だけはどうにか生き抜いているようで、いくつか見かけることができた。

右手に整然と植林されたトドマツの林が現れ、その林の先を右に折れると周遊コースとなる。

トドマツ林の林下もフッキソウの大群落で覆われている。もともと日陰のグランドカバーによく使われる常緑の多年草だが、これだけ広がることは珍しい。

左手に小さな風穴があったが、手を当ててもあまり風は感じなかった。やがて右手に切り株の休憩所が現れる。

もう少し登っていけば大平原という広場に出るはずなのだが、帰りの船が気になるのでそろそろ引き帰さねばならない。ところどころに金網のフェンスで囲まれた植生保護・調査区域が設けられていた。保護すれば少しずつ復活するとはいえ、絶滅した植物は元に戻らない。やはり、「緑の宝石」という自然林を取り戻すためには、エゾシカを全面的に駆除するしかないと思う。

エゾシカが食べない植物にはフッキソウのほかハンゴンソウやフタリシズカなどが知られる。このグロテスクな若芽はテンナンショウ属(マムシグサ)の偽茎と思われ、中島に自生するコウライテンナンショウ(Arisaema peninsulae)であろう。以前はエゾシカが食べなかったとされるマムシグサだが、植物が減った最近ではこれも食べるようになっているといわれる。

周遊コースに戻り、一番左の湖畔コースを進んで湖畔に下りた。船着場が見えるが、金網が張り巡らされているのでゲートを探す。

ゲートの内側では、エゾシカに食害されていないフキ(Petasites japonicus)が大きな葉を伸び伸びと広げていた。エゾシカの食害の有無を歴然と知らしめる光景であった。

船着場近くには洞爺湖森林博物館が建っている。森林資源だけでなく、洞爺湖の誕生、中島のエゾシカや、洞爺湖の自然を幅広く紹介している。たくさん生息しているとはいえ、中島散策ではエゾシカに直接会うことができなかった。