半坪ビオトープの日記

昭和新山、有珠山


洞爺湖の南に有珠山があり、20世紀の100年間に4回の噴火が記録されているが、2回目の昭和19年から20年(1944-45)にかけての有珠山の噴火により東山麓の畑が隆起し、標高398mの昭和新山ができあがった。

昭和新山の麓には洞爺湖有珠山ジオパーク火山村があり、有珠山噴火の歴史や火山の仕組みがわかる情報館や噴火体験室、防災シアターなどの学習施設がある。有珠山ロープウェイの山麓駅も兼ね、そこから大型ロープウェイに乗り6分で山頂駅にたどり着くことができる。

有珠山に向かって上がっていくと、右手に洞爺湖が現れ、中島が意外に大きく見て取れる。中島の左手彼方には、まだ雪の残る端正な雄姿の羊蹄山を眺めることができる。

眼下の昭和新山もまだ水蒸気をわずかに出しながら、赤茶けた山肌を不気味にさらけ出している。約1年続いた噴火の後に隆起が始まり、溶岩ドームの高さは9ヶ月で175mにも盛り上がったという。溶岩ドーム(円頂丘)はデイサイト質の粘性の高い溶岩により形成されているが、温度低下や侵食などで少しずつ縮んでいるそうだ。山肌が赤色に見えるのは、かつての土壌が溶岩の熱で焼かれて煉瓦のように固まったからである。

洞爺カルデラの南部に有珠山が形成されたのは約2万年前とされ、噴火を繰り返し年月をかけて成層火山をなしたが、約7千年前に山頂部が爆発、山体崩壊が発生して南側に口を開けた陥没地形が形成された。この時発生した岩雪崩は内浦湾(噴火湾)にまで達し、有珠湾周辺の複雑な海岸線をつくった。

有珠山は二重式火山で、直径約1.8kmの外輪山の中に大有珠(標高737m)、小有珠などの溶岩円頂丘や、オガリ山、有珠新山(669m)などの潜在円頂丘が形成されている。また、山麓にも溶岩円頂丘の昭和新山や、潜在円頂丘の金比羅山、四十三山(明治新山)などを有する。

約7千年前の山体崩壊後は長く活動を休止していたが、寛文3年(1663)に突如として噴火活動を再開した。記録のある有珠山噴火で最大の寛文噴火では現在の壮瞥町で3mの噴出物が積もり、5人の死者がでた。明和6年(1769)の明和噴火の後、文政5年(1822)の文政噴火では史上最大の50人以上の死者がでた。和人とアイヌの交易場所であったアブタコタン(虻田)は壊滅し廃村となった。その後も嘉永6年(1853)の嘉永噴火、明治43年(1910)の明治噴火と続き、昭和20年(1945)、1977年、2000年と20世紀に4回の噴火を数えた。
山頂駅から左に数分進むと、有珠山火口原展望台がある。有珠山山頂の左手(西)に、1977年の噴火で誕生した過去最大級の銀沼噴火口が見下ろせる。直径が350mあり、今でも水蒸気を上げている。

展望台から南方面には、伊達市が一望され、彼方には室蘭岳などの山並みも見える。

北東を向くと、眼下に昭和新山、彼方にはホロホロ山や恵庭岳から札幌岳へと続く、大きな雪山の連なりが認められる。

北には今来た山頂駅とその向こうに洞爺湖がみえるが、残念ながら羊蹄山有珠山に遮られていて見えない。

有珠山の山頂には牙のように鋭く天を衝く岩峯が連なり、自然の荒々しさを十分表している。右手の方には岩の間に穴がくりぬかれ、向こうに空が見えるところもあり、まさに奇岩怪石といえよう。

帰りにも次第に大きくなっていく昭和新山を見下ろしながら、火山のエネルギーの迫力に圧倒される。この後、洞爺湖岸にある火山科学館に立ち寄って、映像とボディソニックによる震動で、甚大な被害を被った1977年の噴火の凄まじさを体感した。