半坪ビオトープの日記

野付半島


午後は国後国道をまっすぐ南下し、標津町の標津川を越えたところで、左の別海町に属する野付半島に入って行く。左手には根室海峡の海が広がり、その先に国後島が見えている。

野付半島は、潮流によって運ばれた砂が堆積してできた、延長28kmにわたる日本最大の砂嘴であり、野付半島および砂嘴に囲まれた野付湾は、湿地の保全に関するラムサール条約に登録されている。この野付湾は、尾岱沼(おだいとう)と呼ばれるが、冬季は白鳥の飛来地として知られ、飛来する白鳥は一万羽に達する。野付湾西岸にある漁業集落あるいはその周辺も尾岱沼と呼ぶ場合がある。

野付半島の根元方向(北西)を見返ると、斜里岳(1547m)を中心とした知床連山西部が確認される。その右手にも連山は続いている。

北の方向には、羅臼岳(1661m)を主峰とする知床連山東部が見えるが、知床半島の先端部は霞んでくる。

知床半島の先端部の右手には、手前の国後島が見えている。国後島の南端にあるノツエト崎やケムライ崎は、一番近い野付半島から野付水道を挟んで約16kmの位置にある。

細長い砂嘴の右手(南)に見える野付湾の「野付」とは、アイヌ語の「ノッケウ(下顎)」に由来し、砂嘴の形状を鯨の下顎になぞらえた名だと考えられている。広くて浅い野付湾には、干潟やアマモ場がどこまでも広がっている。

野付半島には、オコジョ、ヤチネズミ、キタキツネ、エゾシカなどの哺乳類のほか、固有種のノサップマルハナバチなど多くの昆虫類も生息している。車内からもキタキツネが海岸をトコトコ歩く姿を見ることができた。

やがて右手(南)に湿地帯が見え、その先に林が見えてきた。野付半島には江戸時代の中頃まで、トドマツ、エゾマツ、カシワなどの樹種からなる原生林があったが、年々地盤沈下し、立ち枯れの森となっていった。半島先端はトドマツの原っぱから名付けられたトドワラという荒涼とした景観となっている。今見えてきた原始林オンニクル、ポンニクルも周囲から枯れてきて、特に枯れ木の多いところはナラワラと呼ばれている。そこにはミズナラ、ダケカンバ、ナナカマド、エゾイタヤなどが生えていて、特にミズナラが優占している。

先端部に近づくとネイチャーセンターがあり、野付半島の歴史や自然に関する情報が得られる。そこから湿地帯に沿って右に回り込むトドワラ遊歩道が始まり、その先には船着場があって、尾岱沼漁港への観光船が出ている。道路を直進すると野付崎灯台があり、竜神原生花園の先をなおも歩いていくと「幻の町キラク」があったという伝説が残る遺跡にたどり着くという。しかし、時間がないのでセンター周辺を見るだけにした。

広々とした湿地帯には多様な底生生物(甲殻類や貝類など)が生息し、それらを餌とするオオハクチョウ、タンチョウ、キアシシギなどの渡り鳥も数多く飛来し、その数は毎年2万羽以上になる。今までに確認された野鳥は約250種類に達し、その数は日本で確認されている鳥の約40%に相当するという。

氷河時代に日本列島はしばしば大陸と陸続きになり、マンモス象などが渡ってきた。野付半島沖などの北海道で発見されたマンモス象の臼歯からその生息した時代は約6〜4万年前とされる。野付半島分岐点近くのタブ山チャシ跡は、16~18世紀頃のアイヌ文化の遺跡であり、他にも半島にはイドチ岬チャシ跡やオンニクル遺跡、ポンニクル遺跡など多くの遺跡が見つかっている。江戸時代末期には会津藩が開拓と北方警備にあたり、その関連遺跡もある。

ネイチャーセンターの先にもエゾカンゾウなどの群落があるが、センターまでのフラワーロードの周辺にも御花畑があちこちにある。

ちょっと盛りの時期を過ぎていて数が少ないのが残念だが、濃黄色のエゾカンゾウや濃紫色のノハナショウブがちらほらと散見された。