半坪ビオトープの日記

ロザリオ館、コレジョ館


大江教会の丘の下に天草市キリシタン資料館、天草ロザリオ館がある。この大江の地は、かつて崎津や今富などとともに、天草島原の乱で全滅していたと思われていたキリシタンが160年余を経て多数発見された隠れキリシタンの里である。このロザリオ館は、そうした天草キリシタンに関わる資料を多数集め展示している。3Dマルチスクリーンでは町の風土を紹介し、祈りの声(オラショ)とともに再現したジオラマの隠れ部屋では、当時の強い信仰心を捉えることができる。

ロザリオ館内は撮影禁止なので、パンフの切抜きを載せる。これはマリア観音である。キリシタン禁教時代、信者たちは日本の神仏を仮の神として礼拝していた。その中でも中国渡来の母子観音は「マリア観音」と呼ばれ、聖母子像に見立てられていた。

こちらは、天使の像のメダイ(medaille)。幅1.3cm、長さ1.5cmの小さなメダルであるが、数百年も信仰の証として受け継がれてきたと思うと感慨深い。

こちらが踏絵と宗門改絵踏帳である。よく知られているように、踏絵の目的はキリシタン検索の手段である。最初の踏絵は、寛永8年(1631)の雲仙地獄の熱湯拷問の際といわれるが、徳川幕府寛永6年に踏絵を制度化している。転びキリシタンに転びの証明としてキリストやマリアの像を踏ませていたが、次第にキリシタン摘発の手段となっていった。慶長18年(1613)のキリシタン禁教令発布の後、長崎での元和の大殉教、火炙りなどの処刑、穴吊りの拷問など、想像を絶する厳しい迫害の嵐が吹き荒れたが、それで棄教しない隠れキリシタン探索の象徴がこの踏絵であった。

寛永15年の天草島原の乱後、寛永17年(1640)に幕府は寺請制度を設け、宗門改役を設置した。住民は必ずいずれかの仏寺の檀徒になる必要があり、宗門改絵踏帳には寺院名と踏絵の結果が記載され、戸籍台帳に使われて、江戸時代中期には宗門人別改帳となった。吟味帳には隠れキリシタンの様子が記されている。文化2年(1805)崎津村、大江村など4つの村で5205人の隠れキリシタンが判明した「天草崩れ」と呼ばれる事件の際、大江近在の8ヶ村を統括していた大庄屋の松浦四郎八と、高浜村庄屋の上田源太夫宣珍(よしうず)は、取り調べの段階で踏絵や改宗を誓うなどさせ、最終的には「先祖伝来の風習を盲目的に受け継いでいた」だけの心得違いとして、無罪放免させた立役者として知られる。

ほかにもロザリオ館には、江戸幕府が出したキリシタン禁制の最後の高札「正徳元年(1711)の高札」や、経消しの壺などが展示されていた。禁教の時代、葬儀の時にはお経に合わせて密かに隠れ言葉を唱え、別室で経消しの壺にお経を吸い込ませ、ロザリオをかざしてお経の効力をなくしたという。

天草市の本渡と牛深の途中、崎津や上江との分岐点になる河浦に、天草市立天草コレジョ館がある。この河浦の地には、宣教師を養成する大神学校(コレジョ)が天正19年〜慶長2年(1591~97)までの間、開校されて西洋文化が花開いた。天草コレジョ館は、これらの歴史と文化を紹介する施設である。

館内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教の布教を始め、山口では大内義隆の保護を受け、大分では大友宗麟に謁見して、布教の基礎を築いた。特に九州の戦国大名は、宣教師を通じてポルトガルとの南蛮貿易を有利に行い、鉄砲や火薬を手に入れるとともに、キリスト教に改宗してキリシタン大名になるものも現れた。その代表の大村純忠天正7年(1579)長崎と茂木をイエズス会に寄進し、有馬氏は浦上村を同じく寄進した。また、大村純忠有馬晴信大友宗麟の三大名は、4名の少年を中心とした遣欧使節団をローマ教皇の元に天正10年(1582)に派遣した。伊東マンショ千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルチノの4名の少年は、1584年8月にリスボンに到着、翌年3月にローマ教皇に謁見し、天正18年(1590)長崎に帰国し、翌年秀吉の前で西洋音楽を演奏した。

少年使節団が持ち帰った西洋の文物の中でも大型の、グーテンベルク印刷機の複製が展示されている。ここ河浦の天草コレジョに設置されたグーテンベルク印刷機によって、日本初の金属活字による印刷が行われ、7年間で29種のキリシタン本が出版され、現存するものは「天草本」と呼ばれた『平家物語』や『伊曾保物語』など12種類ある。当時、ヨーロッパでの出版部数が300~500部といわれた中で、天草コレジョでは1500部以上印刷されたという。画期的な印刷機ではあったが、その後、宣教師の国外追放とともに、マカオへ送り返されてしまった。

印刷物の天草本は、日本信者用の平仮名本のほかに、外国人宣教師や伝道師が日本語あるいは日本の歴史や習俗を勉強するためのポルトガル式ローマ字で綴られた本もあった。これは日本の言葉とヒストリア(歴史)を学ぶための『平家物語』の題字のパンフである。

秀吉の前で演奏したという西洋楽器の複製も展示されている。しかし、秀吉は天正15年(1587)年にはバテレン追放令を発し、慶長14年(1609)には全国の信者が75万という最盛期を迎えた後、家康が慶長17~18年(1612~13)にかけてキリシタン禁教令を発布するなどキリシタン弾圧が激しくなった。少年4人のうち、伊東マンショは後年、司祭に叙階されるが、1612年、長崎で死去。千々石ミゲルは後に棄教。中浦ジュリアンは後年、司祭に叙階されるが、1633年、長崎で穴吊りにより殉教、2007年に福者に列せられる。原マルチノは後年、司祭に叙階されるが、1629年、追放先のマカオで死去。少年たちは帰国後、ここ天草コレジョで数年間生活したが、その後の人生はいずれも多難だった。