半坪ビオトープの日記

天草下島、崎津教会


天草市天草下島に所在する崎津集落は、日本在来の宗教である仏教や神道キリスト教信仰の交流と共存の姿を表す漁村集落であり、キリスト教の布教から弾圧・潜伏・復活に至る痕跡を見ることができる。崎津天主堂は、波静かな羊角湾の中の海辺に建っている故に、「海の天主堂」と呼ばれているという。教会が建つ漁港一帯は、日本の渚百選「キリシタンの里崎津」に選ばれ、日本のかおり風景100選「河浦崎津天主堂と海」にも選ばれ、さらに崎津の漁村景観は「国の重要文化的景観」にも選ばれている。

やや離れた観光駐車場から教会に向かう途中、大きな蘇鉄の脇に紋付屋旅館跡の案内があった。玄関口が海側にある紋付屋は、「街道を行く」の著書に「天草は旅人を詩人にする」と書いた司馬遼太郎が泊った旅館であり、「崎津は天草で一番好きな港」といった林芙美子菊池寛与謝野鉄幹夫婦など多くの文人がここに宿泊した。NHKテレビ小説「藍より青く」のロケ地にもなったという。

崎津の細い路地を進むと、「天草ブランド品、崎津杉ようかん」を売る南風屋(はいや)がある。解説板によると、寛政2年(1790)、琉球王中山王の使節船が徳川家斉の将軍就任祝賀のため琉球を出港したが、大時化に遭い漂流し、一行53名が崎津の落戸の浜に漂着した。使節一行は、崎津の人々の救助と接待のお礼に「杉ようかん」の作り方を伝授したという。数十年前途絶えていた味をようやく復活したそうだ。

天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸を機に日本のキリスト教伝導が始まったが、天草では永禄9年(1566)天草郡苓北町志岐の城主・志岐麟泉がキリシタンの布教を許したのが始まりとされる。その後、本戸(本渡市)城主・天草伊豆守鎮種がルイス・デ・アルメイダ神父を招き洗礼を受けたことから、天草全土にキリスト教が広まった。

崎津教会は、アルメイダ神父により永禄12年(1569)に建てられ、ここを中心にキリスト教は天草に栄えた。慶長18年(1613)のキリシタン禁教令発布の後、長崎での元和の大殉教など殉教者が続出し、崎津でも特別厳しい迫害の嵐が吹き荒れた。寛永15年(1638)の天草島原の乱後も、隠れキリシタンとなった信徒は、表向きは仏教徒や神社氏子となっていたが、「水方」と呼ばれる指導者のもと、密かに真夜中に集まり洗礼や葬送儀礼を行い信仰し続けた。

集落を一望する高台にある崎津諏訪神社は、集落の約70%が潜伏キリシタンと発覚する文化2年(1805)の「天草崩れ」と呼ばれる事件の舞台である。崎津村、大江村など4つの村で5205人の信者が判明したが、取り調べの段階で踏絵や改宗を誓うなどして、最終的には「先祖伝来の風習を盲目的に受け継いでいた」だけの心得違いとして、誰一人処罰されなかった。明治5年(1872)に約250年続いた禁教令は廃止され、多くの住民はカトリックに復帰し、明治13年(1880)には初代のボンヌ神父を迎えている。第2代のフェリエル神父の時、明治19年(1886)に木造で天主堂が建てられた。

明治以来3回建て直され、現在の教会は長崎の教会建築の名棟梁・鉄川与助の設計・施工による建物で、第4代ハルブ(HALBOUT)神父により昭和9年(1934)に竣工している。天上へ聳え立つ暗灰色の尖塔の上に、十字架を掲げた重厚なゴシック風の建物である。

教会内部は撮影禁止なので、絵葉書の写真を載せる。堂内は三廊式のリブ・ヴォールト天井、いわゆるコウモリ天井であり、畳敷きという珍しい組み合わせになっている。現在では崎津の約400名のキリシタン信者の祈りの家として毎日使われている。

尖塔を含め入り口から一つ目の柱までは鉄筋コンクリート造であり、その奥は木造である。熊本ではたいへん初期の鉄筋コンクリート造の建物である。迫害時代に厳しい踏絵が毎年行われていた庄屋屋敷跡に建てられている。横から見ると後部が木造になっているのがわかる。

教会敷地の右手にハルブ神父の碑が建っている。オーグスチン・ハルブ神父は、1864年にフランスで生まれ、司祭叙階の翌年の明治22年(1889)に来日し、長崎や奄美での司牧を経て、昭和2年(1927)に司祭として崎津に赴任した時は63歳で、終戦の年の1月に81歳でこの地で亡くなった。観光駐車場の裏手に墓があるというが見落としてしまった。

崎津集落の少し西に小高浜海水浴場がある。波打ち際は階段状で、その下に帯状に砂浜が広がる。さらに西の方を眺めると、羊角湾の入り口の北岸に黒瀬崎などの岬が幾つも突き出ている。