半坪ビオトープの日記

屋島寺、談古嶺


大師堂の左には熊野権現社が祀られており、そこで左に曲がると朱色の鳥居がたくさん並んでいる。蓑山大明神の額があるが、正式には屋島太三郎狸という。太三郎狸屋島寺の本尊である千手観音菩薩の御用狸として善行を積んだことから、現在は蓑山大明神の法名で、屋島寺に土地の氏神として祀られている。

その昔、ある狸が矢傷で死にかけたところを平重盛に助けられ、恩義から平家の守護を誓った。その子孫が太三郎狸といわれる。平家滅亡後は屋島に住み着き、屋島に戦乱や凶事が起きそうな時にはいち早く屋島寺住職に知らせたといい、そうした経緯で屋島寺の守護神になったという。ほかにも太三郎狸にはいくつもの伝説が知られている。
その昔、弘法大師四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷い蓑笠を着た老人に山上まで案内されたという。のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられている。屋島太三郎狸は、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に数えられ、アニメの「平成狸合戦ぽんぽこ」でも知られている。

本堂の左手前に、大きな宝物館が建っている。宝物館には、屋島寺本尊の木造千手観音坐像のほか屋島寺に伝わる数多くの寺宝や、那須与一の子孫が寄進した「源氏の白旗」や「源氏の勝臼」、土佐光起筆「屋島合戦屏風」、「源平盛衰記絵巻」、狩野探信筆「源平合戦絵図・那須与一の扇の的」など、源平合戦に関する宝物も展示されている。

宝物館の中から裏に出ると、池の向こうに客殿が建っているのが見える。

客殿の右手には、護摩堂が建っている。

護摩堂の右手には、書院の裏庭を垣間見ることができる。白い凝灰岩が露出していて、四季を通じてさながら雪が降ったように見える「雪の庭」がある。屋島の上は安山岩ばかりなのに、この庭だけに凝灰岩が出ているのも珍しいという。

屋島寺境内の東大門を出て駐車場に向かう道の右側に、血の池がある。弘法大師屋島寺伽藍を南嶺に移す際、「遍照金剛、三密行所、当都率尺、内院管門」と経を書き、宝珠と共に納め、周りに掘った池がこの瑠璃宝池である。龍神が宝珠を奪いに来るという言い伝えもある。源平合戦の時、壇ノ浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため「血の池」と呼ばれるようになった。

南嶺駐車場と屋島寺の周りには遊歩道があり、新屋島水族館や獅子の霊嚴展望台、談古嶺展望台などを巡ることができる。駐車場の外れから屋島の北嶺が見える。北嶺の左には、男木島、女木島も見える。左の女木島は、桃太郎伝説の鬼ヶ島と伝えられている。

駐車場から遊歩道を東に進むと、談古嶺展望台に行き着く。談古嶺は、源平の古戦場「壇ノ浦」や小豆島、五剣山などが一望できる屋島三大展望台の一つ。村雲尼が明治30年(1897)に屋島を登山した際、源氏の武士や平家公達を偲んで命名した。

談古嶺のすぐ眼下に壇ノ浦が見下ろせ、その向こうに五剣山が溶岩台地の特異な山容を見せている。五剣山は西から一ノ剣、二ノ剣と大きな嶺が五つ並び、四ノ剣の中腹には岩窟があり修行場となっている。南側中腹に四国八十八ヶ所の第85番札所の五剣山八栗寺がある。山麓では、日本三大花崗岩として有名な庵治石が採石され、墓石などの高級石材として加工されている。

壇ノ浦は、屋島と五剣山の間にある細長い入り江であり、西(左)に目を転ずれば、多くの島が点在する瀬戸内海が広がっている。

五剣山の麓の壇ノ浦は、文治元年(1185)の源平合戦屋島の戦いの地で、平家はここから長門山口県)の壇ノ浦へと敗走した。当時、屋島は独立した島で、壇ノ浦も新田開発や干拓前だったが、屋島を取り囲むように流れている川は相引川である。源平両軍が激闘を繰り広げた末、勝負つかず引き分けたことからこの名がついた。相引川の岸辺には古戦場の史跡がたくさん点在している。川から壇ノ浦へ出る手前に安徳天皇社があり、「平家物語」で那須与一が扇の的を射る際祈ったという祈り石や、「義経の弓流し」の名場面の跡は、川の向こう側にある。