半坪ビオトープの日記

屋島寺、本堂


金刀比羅宮のある琴平から高松に戻り、東の標高293mの溶岩台地の半島、屋島を訪れる。ここは那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史跡で知られる。

屋島の南嶺に、四国88カ所第84番の屋島寺がある。正式には南面山千光院屋島寺といって、真言宗御室派に属している。南嶺駐車場から入る門は、東大門である。

境内に入ると石造五層塔が立ち、その右手に鐘楼堂がある。梵鐘は貞応2年(1223)に鋳造された総高102cmの青銅製で、「平家供養の鐘」ともいわれ、重文に指定されている。その右手奥に四天門が見える。

四天門は、入母屋造本瓦葺、前後に軒唐破風を持つ3間一戸の八脚門で、両脇表裏に四天王が安置されている。四天門の先に仁王門が見える。

東大門から境内に入ってすぐ右手には、千躰堂が建っている。千躰堂には、千手観音が安置されている。

千躰堂の左隣には、三躰堂が並んでいる。三躰堂には、釈迦如来阿弥陀如来、鑑真和尚が祀られている。平成20年に改修工事がなされている。

境内中央を眺めると、千躰堂と三躰堂の向かいに鐘楼堂があり、鐘楼堂の奥に宝物館が建っている。宝物館の右に見えるのが屋島寺本堂である。

屋島寺天平勝宝の頃、鑑真和尚によって開創されたと伝えられる。唐の学僧鑑真は、天平勝宝5年(753)苦難の末鹿児島に漂着、翌年東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ち上る瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建したという。のち和尚の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立し、屋島寺と称し初代住職になった。

弘仁6年(815)弘法大師嵯峨天皇の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、十一面千手観音を彫像し、本尊として安置した。天暦年間(947~57)には明達律師が四天王像を奉納した。現在の本尊・十一面千手観音坐像はこの頃の作とされ、榧の一木造漆箔で、重文に指定されている。同じく重文の入母屋造本瓦葺きの本堂は、鎌倉時代に造営された部材を用いて、元和4年(1618)に建立された。

三躰堂の左手には、一願不動尊が祀られており、その左に大師堂が建っている。屋島寺には「不喰梨(くわずなし)」の大師伝説がある。大師が島を上がる途中、喉が渇いたので梨を所望したところ、老翁はこれは食えない梨だと言って断ったという。すると梨はそれ以後石のように堅くなり、本当に食べることができなくなったという。

大師堂の中には、大師像が祀られている。