半坪ビオトープの日記

栗林公園


最後に高松市内にある日本庭園・栗林公園に寄った。国の特別名勝に指定されている栗林公園は、紫雲山を借景として6つの池と13の築山を配した大名庭園である。
回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなり、面積は約74haと特別名勝の庭園の中では最大の広さを誇る。南庭を北東から回遊始めると、最初に北湖の芙蓉峠に上がる。

栗林公園の起源としては、元亀天正の頃(1570~90)現在の高松市内に在住していた豪族・佐藤志摩介道益によって小さな別荘、庭として築庭されたのに始まるといわれる。その後、寛永2年(1625)頃、讃岐国国主生駒高俊によって南湖一帯が造営された。生駒騒動により生駒家が讃岐国を去った後の寛永19年(1642)高松藩主になった松平頼重に引き継がれ、以後5代にわたり高松藩別邸として使われた。廃藩置県後の明治8年に県立公園になり、一般に公開された。
南湖の東南隅にある富士山に似せて造ったとされる築山・飛来峰から眺める景観は、池・建物・橋などの配置が巧みに計算されていて、栗林公園の数ある景観の中で最も美しく有名な構図を見せている。美しい反りが特徴の橋は、偃月橋という園内最大の橋で、弓張月(半月)が湖面に影を映す姿から名付けられた。

飛来峰を降りた吹上は栗林公園の水源地で、かつては湧水があったが、現在は井戸から水を汲み上げ、園内の水全てをここで賄っている。水際には紫色のカキツバタの花が咲いていた。

偃月橋の西にある島は、杜鵑嶼(とけんしょう)という。右のほうにハート形をしたサツキの株があり、恋つつじと呼ばれて人気がある。

南湖全体を見渡せる掬月亭は、歴代藩主が使用した茶室で、江戸時代は「大茶屋」と呼ばれていた。数寄屋造りの建物の名の由来は、唐代の詩の中の「水を掬すれば月手にあり」の句から取ったという。

睡竜潭から慈航嶼に渡る津筏梁の向こうに見える、石組みのある築山は「小普陀(しょうふだ)」という。石組みは室町時代の作風で、本園発祥の地といわれる。

細長い西湖の対岸の岩壁を中国の景勝地に見立てて「赤壁」と呼んでいる。そこに流れ落ちる滝は桶樋滝(おけといのたき)という。藩主がここを通るときなどに、山の中腹においた桶まで水を人力で汲み上げ流していたことからこの名がついたといわれる。

西湖の赤壁が途切れるあたりに、赤い睡蓮の花がたくさん咲いていた。

見返り獅子とぼたん石という奇岩を過ぎると、南湖に次ぐ大きさの北湖が見えてくる。

園内中心に建つこの大きな建物は、商工奨励館という。明治32年(1899)に「香川県博物館」として建てられたもので、現在は県特産品の展示即売や製作実演が行われている。

商工奨励館の前を左から回っていくと、大きな鶴亀松がある。約110個の石を組み合わせて亀を表現し、その背中で鶴が舞っているように松が枝を張っている姿から名付けられた。栗林公園には約1400本の松があり、松の木が美しい庭園として有名だが、その中でもとりわけ枝振りの見事な松である。

帰りがけ、池の浅瀬に60cmほどの大きさのナマズと錦鯉がそれぞれ2尾、戯れているのを見かけた。ナマズが泳ぐ姿をこれほど間近に見たのは初めてである。
これで、GWの四国一周の旅は終わった。いつもの通り急ぎ旅だったけれども、天候にもおおよそ恵まれ、ほぼ予定通り回れてよかった。