半坪ビオトープの日記

松平東照宮、産湯の井戸


11月中旬に東海随一の紅葉の名所といわれる香嵐渓を訪れた。愛知県豊田市足助町香嵐渓に向かう途中、松平町にある松平郷に立ち寄った。松平郷は三河国戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏・徳川氏の発祥地である。一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。松平東照宮の敷地自体が松平氏館跡で、現在でも石垣や濠などが残されている。

鳥居の左横に「松平氏遺跡」「松平氏館跡地」の碑がある。塀に囲まれたこの区域は、松平太郎左衛門家が代々居館を構えた館跡である。伝承によれば、南北朝の動乱期、東国から諸国を流浪してこの地にやってきた時宗の遊行僧徳阿弥は、当地を拠点としていた土豪在原太郎左衛門信重に見込まれ女婿となって家督を継いだ。松平郷主太郎左衛門家を継いだ徳阿弥は、還俗して松平太郎左衛門親氏と名乗り、ここに松平氏の基礎を築いた。その後、2代泰親・3代信光の代に岡崎平野に進出し、当地には信光の兄信広が留まった。松平郷松平家は、関ヶ原の戦い大坂の陣で軍功をたてた9代尚栄が領地440石を安堵され、以後1万石以上の大名に準ずる扱いを受けた。鳥居の手前の石垣を巡らした水堀は、尚栄が整備したといわれている。

元和5年(1619)9代尚栄が氏神であった八幡宮(現、奥宮)に東照大権現(家康)を合祀して松平東照宮となった。現在地に社殿が造営されたのは明治になってからである。昭和40年、松平氏の始祖親氏を合祀した。拝殿はあいにく工事中であった。

東照宮の右手には奥宮の門がある。しっかりとした構えであり、この中に産湯の井戸もある。

奥宮の右手前にある産湯の井戸は、在原信盛が掘ったといわれ、松平家代々の産湯として用いられた。

天文11年(1542)竹千代(家康)が岡崎城で誕生した際、この井戸からくみ上げた水を竹筒に詰めて早馬で届けたといわれている。奥に建つ小さな社には、弁財天が祀られている。

奥宮の拝殿の柱には「産八幡の宮」の札が掛けられている。

拝殿内部には徳川家康松平親氏が祀られているようだ。

奥宮の手前には二の井戸、三の井戸がある。昔は七つ井戸があったといわれる。