半坪ビオトープの日記

明治神宮の花菖蒲


6月中旬にいつもの遊び仲間と連れ立って、明治神宮御苑の花菖蒲を見に出かけた。原宿駅から神宮橋を渡ると、南参道の入口に大きな一ノ鳥居が立っている。北参道と合流するところに立つ二の鳥居は、高さ12m、柱の径1.2mと檜造の明神鳥居では日本一だが、これは一回り小さい。神宮の杜は、荒地に日本全国から集められた献木365種約12万本が計画的に植えられた人工林で、意図的に自然林化されたものとして植物生態学的にも注目されている。昭和45年(1970)の調査時には247種17万本確認されたという。

小さな流れに架かる神橋を越えると、左側に神宮御苑の入口がある。江戸時代初期以来、肥後藩藩主の加藤家、彦根藩藩主の井伊家の下屋敷の庭園だったが、明治初年に南豊島御料地となり、代々木御苑と呼ばれた。

神宮の面積は約70万㎡あり、そのうち御苑の面積は約8.3万㎡ある。東門から苑内に入ると、南池に面して御釣台があり、池に咲く睡蓮の花を眺めることができる。

南池を見下ろすところに建つこの隔雲亭は、明治33年に建てられ、昭和33年に再建された建物で、茶室に使用されている。

南池の上流に菖蒲田がある。これは、明治26年明治天皇がお后のために植えられたものという。

当初は、江戸系の48種があったと伝えられていて、その後堀切など東京近郊から江戸系の花が集められ、現在では、150種1500株の花菖蒲が咲き競う。

花菖蒲の起源は詳らかではないが、江戸時代前期には既に栽培されていたといわれる。野生のノハナショウブから変種が選択され、改良や交雑により花色も花形も増え、六英花や大輪花、八重咲きなども現れてきた。江戸後期の天保の時代には、堀切の農民伊左衛門が日本最初の花菖蒲園を開園し、江戸庶民の行楽地として賑わうようになった。その頃、旗本の松平定朝(菖翁)が改良を重ね、現在目にするような花にまで仕立て上げた。菖翁が作出した品種は300種ともいわれ、堀切や熊本など全国の花菖蒲の普及に影響を与えたという。

御苑には、宇宙・王昭君・立田川・九十九髪・都の巽・雲衣装・五湖遊など、菖翁花といわれる江戸後期の花菖蒲が他の菖蒲園より多く残されていて興味深いが、比較しながら鑑賞するのは難しい。素人としては、のんびり眺めて憩うことができれば御の字である。

深い杜に囲まれ、流麗な曲線を描く菖蒲田や、茅葺屋根の四阿が佇む風雅な景色は、まさに都会の雑踏を忘れさせる別天地といえよう。

御苑の最奥(北)に、湧き水の清政の井がある。「虎退治」で有名な加藤清正は、名高い武将であると同時に城造り・治水・干拓の技術にもすぐれ、「築城の名人」「土木の神様」とも称されていた。この湧き水のある場所は、加藤家の下屋敷があり、加藤清正の子・忠広が住んでいたのは確かだが、清政本人が住んでいたか定かではない。まもなく加藤家が絶え、その後井伊家の下屋敷になったので、清政が掘ったというのは伝説の域を出ない。四季を通じて約15度の湧き水が毎分60ℓ湧き出ることは、都会では珍しいことである。

明治天皇崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られたが、大正9年(1920)東京代々木御料地に神宮が創建された。三の鳥居をくぐると、大きな楼門が建っている。

楼門と回廊に囲まれた境内は広々として、丸く刈り込まれた夫婦楠の間に大きな外拝殿が建っている。総檜素木造の外拝殿も、本殿などと同時に昭和33年に再建されている。中を覗くとなんとか内拝殿が見えるが、その奥の流造といわれる本殿は見えない。