半坪ビオトープの日記

安達ヶ原、黒塚


謡曲「黒塚」で有名な鬼婆伝説が残る安達ヶ原は、阿武隈川東岸の小高い丘陵一帯に広がる。川岸近くの老杉の下に、鬼婆を埋めたという黒塚がある。

「みちのくの安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりといふはまことか」という平安時代三十六歌仙の一人、平兼盛の歌碑が立っている。

黒塚の近くの観世寺の境内には、鬼婆が住んでいたという岩屋などが残っている。芭蕉は元禄2年(1689)に黒塚を訪れていて、「奥の細道」には「二本松より右に切れて、黒塚の岩屋を一見し、福島に宿る」とあるが、ここでは句を詠んではいない。
明治26 年に黒塚を訪れている子規は、「涼しさや聞けば昔は鬼の家」と詠んでいる。

観世寺の「奥州安達ヶ原黒塚縁起」によれば、鬼婆の伝説はおおよそ以下の通り。「京都の公家の乳母だった岩手は、手塩にかけて育てた姫の病気が妊婦の生肝を飲めば治ると聞かされて、東に下り、みちのくの安達ヶ原の岩屋に住み着く。晩秋の暮れどき伊駒之助・恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を乞い、その夜、身ごもっていた恋衣はにわかに産気づき、伊駒之助が薬を求めて出かけたすきに、岩手は出刃包丁をふるって恋衣の腹を裂く。恋衣が苦しい息の下で、母を尋ねて旅してきたことを語ると、岩手はその守り袋を見て、幼い時に都に残した愛しい我が子と知り、気を狂わせて遂に鬼と化す。以後、旅人を殺し肉を食らう安達ヶ原の鬼婆として恐れられる。数年後、紀州那智の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、これから薪を拾いに行くが奥の部屋を決して見てはならぬと言い残して出かけた。しかし、祐慶が奥の部屋を覗くと白骨死体が積み上げられていた。鬼婆の噂を思い出した祐慶は岩屋を逃げ出したが、老婆は鬼婆となって追いかけてきた。絶体絶命の中、祐慶が如意輪観世音菩薩を取り出し必死に経を唱えると、祐慶の菩薩像が宙に舞い上がり破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち鬼婆を仕留めた。祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その地は黒塚と呼ばれるようになった」という。

観世寺境内には、鬼婆が住んでいたという岩屋の他にも、巨石や奇岩が重なり合って異様な光景が見られる。これは、胎内くぐりといって、巨岩の間をすり抜けることができる。

こちらは安堵石という丸い巨石である。よくもまあ、これだけ巨岩や奇石が集まっていると驚嘆するばかりである。

こちらは夜泣き石という。往来の旅人が夜もすがら、この岩屋にさしかかると、昔、鬼婆に殺められし赤子と覚える泣き声が夜な夜な聞こえたという。

夜泣き石の脇には、鬼婆が住んでいたという岩屋、笠石がある。

笠石の先には、芭蕉休み石がある。黒塚は一見しただけなので、この石で休んだかどうか疑わしい。