半坪ビオトープの日記

智恵子の生家


黒塚の北西、安達駅の南西約1kmの通り沿いに智恵子の生家がある。高村(旧姓長沼)智恵子は、明治19年(1886)清酒「花霞」を醸造する「米屋」という屋号の裕福な造り酒屋の長女として生まれ、日本女子大を卒業後は洋画家となり、亡くなるまでに数多くの油絵や紙絵などを制作した。

明治の初期に建てられた生家は、新酒の醸成を伝える杉玉が掲げられた木造二階建ての旧家で、裏から中に入ることができる。

小さな庭には池があり、廻りを岩や草木で囲んで、狭いながらも趣を感じさせる。

智恵子の死の3年後に発表した、高村光太郎による「智恵子抄」の「樹下の二人」には、次のような一節がある。「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。ここはあなたの生まれたふるさと、あの小さな白壁の點點があなたのうちの酒庫(さかぐら)・・・」智恵子はこの家をこよなく愛し、穏やかな自然に囲まれて少女時代を過ごした。

智恵子は、東京で若き女性芸術家として知られるようになって、高村光太郎と知り合い、結婚後も窮乏生活を送りつつ制作活動を続けていたが、父の死、その十年後の長沼家の破産・一家離散など心労が続き、統合失調症の兆候が現れる。睡眠薬による自殺未遂の後、東京のゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を制作したが、52歳で肺結核のため死去する。

「あどけない話」の一節では、「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。・・・智恵子は遠くを見ながらいふ。阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だといふ・・・」

父が亡くなった後、病気がちの智恵子は生家に戻って静養することが多く、光太郎とよく安達の裏山を散策したという。安達太良山阿武隈川が同時に見られる唯一の場所とされる鞍石山は、裏山の景勝地で、今は「智恵子の杜公園」として「彫刻の丘」や「愛の小径」などが整備されている。

安達町(現二本松市)は、ふるさと創生事業で智恵子の生家を買収し、当時の面影を復元して平成5年(1993)にオープンした。裏庭には酒蔵をイメージした智恵子記念館も整備した。記念館には、智恵子が晩年制作した多数の紙絵などの作品が展示されている。